「物語を理解できない」 もテモテ通信2020年オータム号より

「物語を理解できない」

映画が好きで、ジャンルを問わず様々な映画を好んで見ています。ところが多くの映画のストーリーが良くわかりません。

さらには映画を見終わった後に「で、主人公は誰?」と妻に聞くこともあります。

また、演者の名前は知っていても、映画の中の名前はほとんどの場合わからないまま見終わります。

ですから、物語中の名前で映画の話をされると、一体誰のことなのかわかりません。

同じように書籍の文章を読むことも、多くの場合は理解が困難です。ところが映画と同じように本が好きで、手に入れては積ん読状態に。

物心ついた時にはこの様な感覚でしたから、文章についての感想を求められると、まったく理解できずに、苦しい時間でしかありませんでした。読書感想文はまったく出来ませんでした。感想がないのです。

どのように映画を見ているのだろうか、どのように文章を読んでいるのだろうか。と考えてみますと、物語の中の、その瞬間の場面や出来事を一枚の写真のように捉えて、ドキュメンタリー写真のようにリアルな事柄として受け止めて、咀嚼しているような気がしています。

日常の生活においても同じような感じ方をしているようで、目に見えるものはその瞬間瞬間の画像として認知しているような気がしています。そこにある事実だけが存在して、その事実をそのまま受け入れる、そんな感覚です。

聖書を「読む」ということも同じように困難が伴います。そもそも登場人物がまったくわかりません。その関係性も理解できません。その上で、当時の修辞学によって書かれた作品が、さらに日本語に翻訳されている状態ですから、まったくもって理解不能な状態です

ウイリアムス神学館での学びは、この聖書なるものを丁寧に教えていただけるものと考えていましたが、聖書の内容の一つ一つについて丁寧に学んだ記憶がありません。

各科目の先生方が教えてくださっていたのは、聖書を読み解くための方法でした。旧約聖書の教授はリアリストでありながら信仰的理解をする方で、「この人はそもそもいなかったでしょう」「こんなことを言うことはないです」「作り話です」と聖書をバッサバッサと切り捨てていきます。

しかし、聖書として記されたことには意味があり、書き記した人たちがどのような思いや背景で書き記したのかを研究すると、伝えたかった本質が見えてきて、その中から信仰の本質を読み解くことが出来るということを教えていただきました。

聖書の読み方を知ると、興味深く聖書を読むようになりますが、いわゆる文学の深く広い世界が、どこまでもどこまでも留まることがない世界として立ちはだかってきます。この深く広い世界が面白いと感じると、文学に興味を持ちどこまでも歩き続けることが出来るのでしょう。

愛読書はなんですか?と問われると、、、見つかりませんでした。いつか「聖書」と応えられる日が来ることを望みたいと思っています。

 

もテモテ通信2020年オータム号より

 

もテモテ通信_2020オータム号