2016年7月16日 書き下ろし
神学校の1学期がほぼ終わりました。残るは面接と終了礼拝のみになりました。
少し振り返ってみたいと思います。
1学期の授業は、何をどの様に学んで行けば良いのかがわからない不安と、果たしてこの様な感じで3年間も学ぶことが出来るのかという不安が常に漂っていました。
テストが迫ってきて、まったくわからない不安がますます膨らんで来るのですが、神様に祈りつつ、準備を進める内に、1学期分の学んだことが少しずつ見えてきました。実際には身になっているとは言いがたいのですが、キーワードを拾い集め、その事について書き出し、簡単なノートを作ることによって、「あぁ、こういうことを学んでいたのかぁ」と気がつくのです。
もともと人の話を聞き理解することが不得意なので、授業中に理解することはほとんど出来ません。そのためにボイスレコーダーで録音をしているのですが、このテスト準備ために、いくつかを聞き直してみたところ、「おぉ、こういうことだったのか」と理解が進みました。
テストの結果については、来学期にならないとわからない様なので、これもまた祈って待つことにいたします。
神学館では、日に三度の礼拝を持って過ごしていますが、その礼拝の都度、心を神にむき直す時として役に立っております。
日々の生活の中では、小さな事から大きな事まで色々と考え悩む事があります。小さな事では、ちょっとした失敗や、自分の思うようにならないような事などがあり、大きな事では、将来に対する不安や、家族への心配などがあります。それらの不安や悩み事を、日に三度の礼拝において神様にゆだね、神様の愛とキリストの恵みに気がつく事を願い、礼拝を守っております。この、心を神にむき直す時というのがどれだけ大切かというのは、神学校生活では本当に身にしみて感じます。
神様の方に心が向いていない、「的を射ない」「的外れ」という言葉で表現されますが、そのような神様に心が向かなくなることを「私たちの罪」とされていますことからも、この「私たちの罪」を、日々の礼拝によって、軌道修正させてくれます。これは、ハイキングや登山などでコンパスを使って、都度方向を確認し、方向を定めながら目標を目指すことと同じです。このコンパスが失われてしまうと、目標が見えなくなってしまうのと同じように、日々の学生生活の中で礼拝が失われてしまうと言うのは、コンパスを失うのと同じなのでしょう。日々の礼拝を大切に守っていきたいと思います。
教会実習においては、新しい方々との出会いを通して、学ぶことが沢山ありました。
特に一番の学びは、直接に教会運営に関与しない立場で教会生活を送ることでした。
今までの経験や実績、体験などを通して、自分が出来ること、出来ないこと、もしくはアイデアや技術など、そのほか、色々なことがありますが、神学生という立ち位置で教会に関わり、聖職を目指す奉仕者としての立ち位置を探しながら、関わっていくことに新鮮さを感じています。
自分の立ち位置を探しながら、教会生活を送るということは、ある意味においては、教会に責任を持つことなく、責任のある行動をとることが求められます。またその逆に、責任を持つような事柄には、実習中の学生としての責任を持ちながら、教会の責任を背負わないような立ち位置を探して関わっていく。この感覚が、楽しくもあり、難しくもあり、教会実習として良き学びになっていると感じております。
この夏は、神戸ミカエル教会で夏期実習が用意されております。教区の様々な行事にも参加してまいります。
そのなかで、中学生・高校生を対象にしたキャンプ、中高生大会に参加いたします。
私はキャンプ中に「証し」をすることになりました。
「証し」そのものは、私とイエス・キリストとのことを話せば良いので、話せるのですが、中高生大会のテーマになっている「らしさ」、「私らしさってなんだろう」という「らしさ」というテーマについてもすこし触れられれば触れて欲しいというような感じでした。
そこで、「らしさ」って何だろうと黙想してみましたが、その前に、大きな問題にぶつかってしまいました。
そう、私自身が「らしさ」というものを一度も考えたことがなかったのです。別の言い方をすると「らしさ」そのものの存在を認めていなかったのです。
すでに7日間考えていますが、やっぱり「らしさ」そのものが理解できません。
この「らしさ」を考えるときに、思い当たることがあります。
それは「らしさ」を考える、もしくは悩む人たちと、「らしさ」そのものを考えない人たちの溝が存在するのではないかということです。
それは、例えば、学校や職場において、友達を作りワイワイと楽しみ、ずっと一緒に過ごすような仲間
・友達意識を持って生活している人たちと、そうではなく、1人自らの探し求める事柄に歩んでいく人たちの大きな隔たりです。
「中二病」という言葉が数年前に流行りました。これは病名でも何でもなくて、ただ単に、中学二年生ごろに特有な「自分だけが全能であり、何でもすごいパワーを持っている」と妄想したり、「自分は特殊能力を持っていて、いまはまだ眠っているだけなんだ」と妄想してみたり、またそれに付随するように、奇異な行動や言動をとってしまう、思春期特有の現象を指して、多少の揶揄と自虐性を持って「中二病」とお笑いタレントが名付けた名称です。
それ以外にもこの「らしさ」について悩むというのも「中二病」の一つの現象だと思われます。
イエス・キリストは私たちに「らしさ」を求めたのだろうか、ということを、ここのところ考えております。
神様は私たちに「らしさ」を授けたのだろうかと。
結論的な話しだとすると、たぶん神様も、イエス・キリストも「そのままのあなたで良いんだよ」という事になってしまうのだと思います。
神様は私たちを作られたときに「良し」とされているわけですから、もう、そのままの自分で良いのだと思います。
イエス・キリストも、色々な人びとと出会い、「お前らしくないからダメだ」とは言っていないと思いますし、「あなたらしく生きなさい」とも言っていないと思うのです。
この中高生たちの思い「らしさ」というテーマを思うとき、彼らが、どの様にこの「らしさ」について思い巡らし、どの様に悩んでいるのか、もしくは「らしさ」を探そうとしているのか。
または、この「らしさ」について、ついて行けない人がいないだろうか、ということを考えながら、参加しようと思っております。
教会実習とはまた違う、色々な人との出会いを通して、神様の愛、イエス・キリストの恵みを感じられるように自分を備え、言葉や思いを受け入れられるように、祈ってまいりたいと思います。
父と子と聖霊の御名によって、アーメン