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2016年7月2日 夕の礼拝

2016年7月2日 夕の礼拝

ローマの信徒への手紙 8:18-25

私たちの希望とは何でしょうか。

子どもの頃から、希望や夢というものを持っていなかった私には、理解しにくい事柄です。
幼稚園の頃、お絵かきをしたり、お話をしたりするなかで、「大きくなったら何になりたいですか?」「どういう大人になりたいですか?」と言われて、希望の絵を描いたり、お話をしたりということが良くありました。
しかし、私には、それがなかったのです。仕方がないので、お絵かきでしたら「自分が書くことの出来る絵」を描いて、その絵に合わせて適当に作り話をしていました。

覚えているエピソードでは、お絵かきの時間に「将来のなりたいもの」を書きましょうと言うのがあり、絵が描けなかった私は、一番手軽に書けそうな「お馬の絵」を描きました。そこまでは覚えています。その後は自分では覚えていないのですが、馬と大人を組み合わせたら、競馬の騎手になる事に気がついたのでしょう、「将来は競馬の騎手になりたい」と話したそうです。
そこまでだったら良かったのですが、競馬というのが賭け事だと言うことを知りませんでしたので、何も気にしていなかったのです。後から母から言われたのは「宮田くんのご両親は競馬をやっているんですね」と言われて、良い気はしなかったという話しです。両親は競馬を全くやっていなかったのです。

周りの子どもたちは、色々と話しながら楽しそうに将来の夢の絵を描いていたのを思い出します。

リンパ線ガンで希望を失っている高校生のお話しを先日いたしましたが、その彼は「SEKAI NO OWARI」というバンドのファンだと言うことを知りました。

「SEKAI NO OWARI」というバンドは、2011年にメジャーデビューをして一躍人気者になったバンドです。2015年にはNHK全国学校音楽コンクールの中学生の部の課題曲にも選ばれています。

曲の雰囲気は、デジタル楽器とビジュアル演出が合わさってとてもファンタジーを感じる、少し未来的な印象を受ける楽曲です。

今週は、この「SEKAI NO OWARI」の曲を聴きながら勉強をしていました。

何度も何度も繰り返し聴いているうちに、なにか違和感を感じました。

曲はとてもメロディアスで綺麗で、キラキラしたファンタジーに溢れる曲なのですが、歌詞がとても絶望的なのです。
この現実世界に対して絶望的なまでの歌詞が続きます。
ファンタジーだから現実に対してアンチを叫んでいるのではないかと考えている方も多いようですが、どうもそうでもないのではないかと思うのです。

私たちは、ずっと現実世界の希望を持たされてきました。そして希望を持つことが最善と教えてこられました。
しかし、現実はどうでしょうか。1980年代までは、高度経済成長の続きで夢も希望も持つことが出来、それが実現できる世界だったのかもしれません。
90年代に入り、バブル崩壊後、様々な現実が目の前に現れてきました。そして、21世紀に入ります。
21世紀と言えば、車が空を飛び、空中に張り巡らされたパイプの中を人が浮きながら移動して、ワンタッチで食事が取れるような未来の21世紀です。そのような時代は来ませんでした。
アニメの世界では、私たちの想像の未来はもっと先に進んでいて、第三次世界大戦が勃発して、放射能に汚染され、廃墟となった都市が描かれています。
もしくは、様々な問題が解決できずに、崩壊し破壊され尽くした世界で、小さくなって生きていく人間たちという世界観が登場します。
そのような時代を背景に生まれてきた子どもたちが、いま、「SEKAI NO OWARI」というバンドに惹かれているのです。

「将来の夢というものが実現できる世界ではない」
「頑張ったところで報われるとは限らない」
「正義と大人は叫んでいるけど、正義と言えばいうほど反対側の人たちを作り出している」
「平和を維持するために戦争が必要になってしまっている」
と、シニカルに、そして現実的に歌っているのです。

このバンドの世界観は、アニメの世界で先に進んでしまった未来のように、私たちが普段見ている世界とはちがう、「絶望」という時代の中にいる「私たち」からの声のように思われます。
そして、それに共感する中高生たち、そして、その現実がファンタジーという雰囲気で包み込まれているために気がつかない大人たち。
きっと、絶望の淵にいる、先ほどの高校生も、このバンドの世界観に共感するところがあるのでしょう。

”明日を夢見るから今日が変わらないんだ
僕らが動かせるのは今日だけなのさ
今日こそは必ず何か始めてみよう
応援はあまりないけど頑張ってみるよ”
「SEKAI NO OWARI」 ”銀河街の悪夢” から

子どもたちには「目に見える希望」ばかりを求めていたように感じます。
そして、その結果も求められているのではないでしょうか。
子どもたちの笑顔を見るたびに、この子どもたちの笑顔が、悲しみに変わり、そしていつしか憎しみに変わっていってしまわないように。
「目に見えない希望」というものがあるんだ、「手に入れるもの」だけが希望ではないんだ、「あなたがいる」ただそのことが「私の希望なんだ」と。

そして肉体はいつの日か誰でもなくなってしまうけど、永遠の命という希望はあるんだと。

「イエスが共にいてくださる私」というものを実感するとき、「イエスはただそばにいてくれる存在」であり、決して、直接耳に声を掛けてきたり、手を取ってどこかへ連れて行ってくれることはありませんが、「そばに共にいてくださる」ことによって、その事が自然と相手に伝わり、「私が、私として”いる”」ということが神様に大切にされているんだ、と気が付くことによって、希望の光が見えてくるのだと思います。

父と子と聖霊の御名によって、アーメン。