2019年2月6日 説教論 演習説教
説教論の授業で演習として説教を行った。
C年・特定11に見立てて、聖餐式の中で説教を行うという体裁で原稿を用意して、実際に説教を行います。
説教演習後、担当教授によって講評を受けます。
以下説教原稿。
ルカによる福音書10章38節〜42節
日ごろTwitterを見ていますと、いろいろな情報が飛び込んできます。
そのTwitterではエゴサーチという検索をすることがあります。
このエゴサーチ、エゴはギリシャ語由来のエゴーから来ています。
ギリシャ語でエゴーエイミーという言葉とつながったら、何て神学的なんだろうと思うわけですが、
英語でもエゴーは自己とか自身という意味で、要するに自分の事を検索するのがエゴサーチです。
自分の事を何のために検索するのかというと、自分が他人からどのように見られているのか、どのように言われているのか、誹謗中傷されていないかなど、基本的にはネガティブな感情からエゴサーチするのが多いと思います。
さすがに私自身は有名ではありませんので、私の事を検索してもほとんど出てきませんが、「聖公会」というキーワードは、常時検索対象の言葉として検索をかけ続けています。
すると、聖公会という文字列がTwitterに含まれていれば、リアルタイムでツイートが引っかかってきます。
言葉の釣をしているような感じです。
「聖公会」のキーワードで検索して出てくるツイートはそんなに多くありません。教会や牧師はほとんど使っていないのでしょう。もともと一般的に認知度が高くない「聖公会」という言葉、その上関係者もツイートしていないとなれば、ほとんど認知されていない言葉、今に生きる言葉として聖公会が使われていないとも言えます。
その検索して引っかかってきたツイートに、こんなのがありました。
「神様が望まれるのは行いや物質ではなく心です。 嫌々従う心ではなく、心からの喜びを持って神様を見上げることこそが最大の奉仕であり、賛美であることを思わされます。」
プロテスタント教会の牧師がツイートしていました。
「これこそがキリスト教的な意味での「愛」です。」と。
これは、詩編147編の次の言葉から黙想されたもののようです。
「主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく/人の足の速さを望まれるのでもない。主が望まれるのは主を畏れる人/主の慈しみを待ち望む人。」(詩編147:10-11)
このツイートに、ある女性が反応されました。
「だからマリアがヨシでマルタがダメなんですね。やっと分かりました。 でもサラリーマンで主婦としてはマルタが気の毒・・・」と。そして、「私が子供の頃からマルタびいきなのは「あのイエス様がいらっしゃるなんて!ああ嬉しい!お疲れだろうしご馳走作って食べて頂こう!」とワクワクしてたのにマリアは手伝わないで、叱ったら二千年も人々に悪い例として嘲笑われている点なんです。」と、気落ちされていました。あるとき、この方はどこかの教会で牧師に尋ねたのでしょう。「マルタとマリアの不公平とか。牧師さんは言葉に詰まって悲しそうでした。」とも書いておられます。
最初にツイートした牧師さんは「聖書には一般常識とはだいぶ異なることも書かれていて、その矛盾に納得いかないこともあります。でもその意味を考えていくことも大切だと思います」と結ばれています。
私には、彼女の気持ちにより添っているようには見えませんでした。
気になったので私もツイートしました。
「私は、イエスはマルタを叱っていないと考えています。どこにも叱ったとは書かれていません。」と。そして、私が以前神戸教区の中高生大会にときに話したマルタとマリアの話しが掲載されているWEBを紹介しました。
彼女は、「大人になって初めて問題の箇所を確認しました。イエスではなく周りの人間がマルタをバカにしてきたんだと思います。考えたら、せっかく有難いお話をしているのにバタバタして聞いていないのは勿体ない。おもてなしは後にして大事なことは座って良く聞く。仕事でも同じです。イエス一行が死にそうになっているなら、イエス様まずは休んでくださいと言ってもいいし、イエスが今、食べるより話したいと思ったなら合わせて聞いていい。その時最も必要なことを一心にすること、とサラリーマンは思うのでした。」と。
「もっとも必要な事を一心にすること」彼女は、今まで描いていたマルタ像から新しいマルタ像が見えてきたのかもしれません。
先のツイートのような、悲観的応答から、前向きな応答に変わっているように感じます。
ちなみに、「周りの人間がマルタをバカにしてきたんだと思います」とも書かれていたので、「マルタをバカにしてきたのは、聖書を読んでいる人たちなんです。マリアも、マルタのことをばかにしていませんし」と、イエスもマリアもマルタをバカにしていないですよということも付け加えておきました。
中高生大会の時に話した内容は、
今日の福音書の場面からお話をしました。
イエス様と弟子たちがマルタとマリアの姉妹の家を訪れたとき、二人とも大喜びでイエス様一行をもてなす話しです。お姉さんのマルタはおもてなしのために一生懸命働き、その準備に大変だったのでしょう。ところが妹のマリアは一生懸命に働くこともなく、イエス様の足下に座って、イエス様の話を聞いていたのです。
イエス様が尋ねてくると言うこんなハッピーなことはないのにも関わらず、このお姉さんのマルタは、妹のマリアの態度にイライラし始めて、イエス様に不満をぶつけてしまいます。「主よ、私の姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何とも思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」マルタはイエス様がマリアに注意してくれることを期待したのでしょう。しかしイエス様は「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要な事はただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」と応えました。
この話しの大切なことは、イエス様は不満をのべたマルタを批判していないと言うことです。2回もマルタ、マルタと呼びかけて、マリアは良い方を選んだんだよと、多くのことに思い悩んで心を乱してしまったら、せっかくマルタ自身が働いて奉仕している意味が、自己満足になってしまい、イエス様のため神様のために働いているのではなくなってしまいますよと。
この話しには前後がありますが、ここを中心にお話をしました。
聖書の中のイエスの言動をみてみますと、叱る怒るというような感情の時は、「悪魔よ出て行け」というように、一言で一喝しています。もしマルタを叱っていたら「マルタよ、だまれ」とか言ったかも知れません。
しかし、ここでは、「マルタ、マルタ」と2回も名前を呼ばれているのです。
優しく呼びかけたと考えた方がしっくりくるのかもしれません。
そして、先ほどのTwitterで悩まれていた女性、彼女こそがマルタだったのかもしれません。
彼女は、小さいときに出会った聖書の言葉、どのように聖書の言葉に出会ったのかはわかりません。しかし、彼女はマルタびいきと御自身でおっしゃっているように、マルタにご自分を重ねていたのでしょう。だからこそ、悲しくなっていたのだと思います。
もう一度彼女のツイートを読んでみたいと思います。
「大人になって初めて問題の箇所を確認しました。イエスではなく周りの人間がマルタをバカにしてきたんだと思います。考えたら、せっかく有難いお話をしているのにバタバタして聞いていないのは勿体ない。おもてなしは後にして大事なことは座って良く聞く。仕事でも同じです。イエス一行が死にそうになっているなら、イエス様まずは休んでくださいと言ってもいいし、イエスが今、食べるより話したいと思ったなら合わせて聞いていい。その時最も必要なことを一心にすること、とサラリーマンは思うのでした。」
まるで、イエスに「マルタ、マルタ」といさめられたマルタのその後の気持ちのようにも感じられます。
「イエスが今、食べるより話したいと思ったなら合わせて聞いていい。」
まさにこの一言に、御心をどのように感じ取ることが出来るかの本質が言い現れています。
「イエスが今、食べるより話したいと思ったなら合わせて聞いていい。」
御心に心を寄せること、そして御心をしっかりと感じ取れる気持ちをもつこと。
Twitterで、見ず知らずの人、顔も見たこともなければ、どんな人かもわからない。
その出会いと言葉のやりとりの中にも、私たちの間に働かれるイエスの言葉を垣間見ることが出来、さらには、マルタにも出会うことが出来るのです。。
マルタとマリア、どちらも御心を感じて応答していたのでしょう。
私たちも、マルタとマリアの両方の働きの大切さを思いながら、教会での私たちの働きについて、思い巡らせながら、礼拝を続けてまいりましょう。
以上、説教原稿おしまい。
実際の演習では、この原稿を下地に、話し言葉に換えながら説教を行っています。