2019年1月24日 説教論 演習説教

説教論の授業で演習として説教を行った。

聖霊降臨日に見立てて、聖餐式の中で説教を行うという体裁で原稿を用意して、実際に説教を行います。

説教演習後、担当教授によって講評を受けます。

以下説教原稿。

 

ヨハネによる福音書20:19-23

聖霊降臨日

先日、東京教区の主教按手式に参列してまいりました。主教按手式でしたので多くの方々が参列されており、昔からの友人たちと久しぶりに再会いたしました。こういう機会でもなければ、なかなか会うことが出来ない友人たちです。

私自身が神学生そして聖職候補生になってからお目にかかる方々もいらっしゃり、私の転身の様子に様々なご挨拶がありました。

その多くは、私の書いた文章が、管区事務所便りに掲載されたり、神学生後援会に掲載されたりして、少しばかり様子をご存じのようで、「結構ちゃんとしたことを書けるようになったのね」「いやぁそれなりに立派になったねぇ」と。そして「頑張ってね」「楽しみにしてます」と、応援のお言葉をいただきました。

口の悪い友人もいるものですから、私たち夫婦をよく知る旧知の女性からは「あんなダメ男で、どうしようもない男が、こんなに太って、立派になっちゃって、本当に最低の男だったんだから」と。ニコニコしながらも笑ってない目で、そして、とどめに「ちゃんとしなさいよ」と。
思わず「ちゃんとしてるってばぁ」と言い返してしまいましたが、悪い気はしませんでした。

若い頃のわたしを知っている方々、友人たちというものは、本当に遠慮なく話せるので、とても楽しい時間を過ごしてきました。
とは言っても、やっぱり、「赤ちゃんの時におむつを替えて上げたのよ」と言われるような感じで、なんとも言えないこそばゆさがあります。

主教按手式には、按手に先だち聖霊の恵み・働きを願う歌を歌い、按手に臨みます。
聖歌298番です。
「聖霊くだりて」で始まる歌です。

この歌を歌いながら自分の事を考えてしまいました。
いま、聖霊の恵みと働きを、会衆とともに求め、そして按手に挑む。
いずれかの日には、私自身もこの歌とともに聖職按手をうける日が来るのだろうかと。

按手という特別な恵みに対して聖霊を求め、その働きを願う。
いま会衆で歌っている私には、この聖霊の恵みはあるのだろうかと。

なにか選ばれた者だけが、その特別な恵みを受けるのではないかと、思っていたのです。

ところが、聖霊降臨日の福音書を読みますと、「弟子たちはユダヤ人たちを恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵を掛けていた」と聖霊を受ける弟子たちが出てきますが、この弟子たちが、イエスが選んだ12弟子だったとは書かれていません。

イエスの弟子たちは、12弟子以外にもたくさんいましたし、ユダヤ人を恐れていた弟子たちというのも、イエスが十字架刑で死を迎えた時に、イエスの弟子ではあったけれども、声を上げられなかった、声を上げなかった弟子たちがそれなりにいたわけです。

聖書にでてくる名もない弟子たち、彼らが、イエスの十字架刑での死の後、今度は自分たちがイエスと同じように十字架刑にかけられ殺されるのではないかと恐れていたのです。
また、直前の聖書箇所では、イエスが復活されたことが記されており、この弟子たちにもイエスが復活したという話しが伝わっていたかもしれません。

だとすると、もしイエスが復活したとすれば、イエスを裏切った弟子たちは、イエスに合わせる顔がないわけです。それ以上に、イエスから叱責を受けることも十分考えられます。

こんなに恐ろしいことはありません。どちらにしても恐ろしいことが起こるのではないかと戦々恐々としていたのでしょう。

そこへ、イエスが現れます。
「あなたがたに平和があるように」と。
そして、十字架刑の時に傷つけられた手と脇腹を見せるのです。

あの時、あの場所で見たイエスが、「あなたがたに平和があるように」と言って現れるのです。

そして、「父が私をお遣わしになったように、わたしもあなた方を遣わす」と。
さらに、息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と。

イエスは、恐れ隠れていた弟子たち、それも、名もなき弟子たちのところに来て、聖霊を与え、派遣するのです。

イエスの12弟子が、イエスの弟子になった経緯もそうですが、イエスの方から一方的に声を掛け、それにしたがって歩む12弟子が描かれております。

このイエスが弟子たちに現れたときも、イエスの方から一方的に関わってきています。
そして、イエスは弟子たちの裏切りについてはまったく言及することなく、「平和がありますように」と聖霊を与えて派遣させられるのです。

聖霊の恵みは、もしかすると特別な人のみ、選ばれた人のみに降り注ぐのだ、というのは少し違っていたようです。

イエスを裏切り、ユダヤ人たちの迫害をおそれて、その後も戸に鍵を閉めて閉じこもっていた弟子たちにも聖霊は与えられるのです。

そして、自分たちの裏切り、そののちの態度も含めて、イエスはとがめることなくゆるして下さっているのです。

聖霊の働きは、具体的に「これだ」というのはわからないわけですが、それでも、聖霊は今も働いていると私たちは告白しています。

聖霊の働きをどこに見いだすのかといつも考えていますが、目に見えるというか、体験出来るのが聖職按手のときの、聖霊の歌だと思っていたのです。

しかし、その時だけではなくて、いつも、つねに私たちには、イエスが弟子たちに吹き込まれた息のように、聖霊の働きがあるのではないでしょうか。

そして、その働きの中に、イエス・キリストを伝えることが求められているのだと思います。

私の友人たちが、掛けてきた言葉、口の悪い友人が多いので、チクチクと心に刺さる言葉でもありますが、その言葉の背景には、「いま、あなたはちゃんと神様の方を向いていますよ、他の方向に向かないようにね」という、私の昔の態度から比較して、神様のほうへちゃんと向いているということへの、赦しの言葉ではなかったのかと思います。

聖霊の働きは、私に働いたのではなく、私に声を掛けてきて下さった方々に働いていたのです。

そして、イエスと同じように、一方的に、私に対して「平和がありますように」と挨拶をしてきていたのです。

聖霊降臨日を迎えて、聖霊の働きってなんだろうと思っていましたが、このように、イエスに遣わされた誰かを通して、私たちに働かれる恵みなのだと思います。

そして、私たちもまた、イエスに遣わされた名も無き弟子たちの一人なのです。

出会った人と話す時、その言葉には私たちを通して働かれる、聖霊の恵みが伴っているのかもしれません。
そして、その言葉からキリストの愛が、知らず知らずに相手に伝わっているのかもしれません。

そこにキリストの愛が伴っていれば、赦し赦される関係になることでしょう。

聖霊ってなんだろうと、思った時には、イエスから一方的に吹きかけられた息によって、すでに私たちは聖霊を受けていて、私たちは赦し赦される関係を作ることが求められているんだ、ということを思い起こすと良いのかもしれません。

このあと平和の挨拶があります、イエスが弟子たちに現れたときに言われた言葉と同じ言葉です。
聖霊の働きというものを気に掛けながら聖餐式を続けてまいりましょう。

 

以上、説教原稿おしまい。

実際の演習では、この原稿を下地に、話し言葉に換えながら説教を行っています。