2017年6月11日 京都復活教会・説教実習

2017年6月11日 三位一体主日・聖霊降臨後第一主日
京都復活教会
説教実習

本日は、三位一体主日でございます。

「さんみいったい」とも言われますが、祈祷書には「さんいいったい」と書かれております。
以前、教会で「さんいいったい」と言いましたら、間違っていると注意され「さんみいったい」が正しいんだという方がいらっしゃいました。
昔使っておりました文語の祈祷書を見てみましても、「さんいいったい」という言葉が使われておりました。戦前の祈祷書でも「さんいいったい」となっております。

きちっと調べ切れていませんが、どうもこれは言語的表現の問題なようです。
「観音様」は「かんのんさま」と読み、「かんおんさま」とは一般的には読みません。
同じように「さんい」は「さんみ」と前の「ん」に影響を受けて「さんみいったい」と発話するのが、言語的にはよろしいようです。
パソコンの入力でも、「さんいいったい」と入力すると「さんみいったいの誤読」と注意されます。
とはいえ、聖公会の祈祷書には「さんいいったい」と書かれておりますので、その「い」について、少し考えてみたいと思います。

まずは、教会の暦について、振り返ってみましょう。
昨年の11月27日が降臨節第1主日でした。教会の暦の始まりです。そしてクリスマスを迎えイエス様の誕生をお祝いしました。
1月1日はイエス命名日、そして1月6日は顕現日、そして主イエス洗礼日、さらに3月1日から大斎節に入りまして、4月14日金曜日、この日がイエス様が十字架に付けられ殺される受苦日でした。
三日目の4月16日に復活日を迎え、そして5月25日にイエス様が天に昇られる昇天日、そして、先週がイエス昇天後に、聖霊が下って来たことを記念する主日でした。
イエス様の生涯とともに教会は暦を刻んで礼拝を守っております。

先週は聖霊降臨を迎え、私たちの時代、教会の時代と呼ばれる時代を歩む季節です。このさき12月2日土曜日までずっと続きます。
これは、イエス様が昇天され聖霊が下ってきてから、今、2017年までの期間を考えれば、教会暦ではおよそ6ヶ月間ですから、あっという間の期間ですが、実際には、変化の少ない緑色の季節、長い長い半年間です。

いま簡単に説明いたしました教会暦は、聖書に基づき、イエス様の生涯や、その周辺出来事に結びついていましたが、本日の三位一体主日は、その直接の根拠は聖書には特にあるわけではありません。「三位一体というのはこういうものだ」と明言されているところは聖書には無いのです。
「父と子と聖霊」という存在が表現されているのです。

教会の暦の次は、三位一体を礼拝で意識し始めたのはいつからなのだろうか、と、すこし歴史を振り返ってみたいと思います。

この三位一体をたたえるミサは、8世紀頃のベネディクト修道院に見られるそうです。その後、イギリスにおいては1162年に一般的祝日になり、ローマでは1334年に公式の祝日になったそうです。まだ宗教改革前の出来事です。

この三位一体ですが、私自身、なんとなく、ぼんやりとわかっているような、わかっていないような、そんな信仰生活を送ってきました。
父と子と聖霊が一つの神だというのは、言葉としては良く理解しています。
そういうものだからそういうものなんだと。
たぶん、これで私たちの信仰は問題無いと思います。

祈祷書に書かれております教会問答をお読みいただくと良くわかるのですが、「父と子と聖霊の聖なる三位一体の神を信じることです」と、私たちは、信じることが求められています。
「三位一体とはどういうことなんですか?」とはここでは問われていません。
この信じることというのはとても大切で、私たちの信仰は「信じること」に重きがおかれているのだと思います。
どういうことかと言いますと「どのように信じているのか?」「証しをしないとその信仰は認められません」とはどこにも書かれていないのです。

「父と子と聖霊の聖なる三位一体の神を信じる」ことが大切なのです。

しかし、この三位一体の神を、教会の礼拝として守り始めたのが8世紀頃からだとすると、ずいぶん後からのような気がします。

それ以前はどうだったのかと言いますと、そもそも、この三位一体というものを理解することが難しく、多くの聖職たちが、三位一体を考え、理解し、色々な考え方が出てきて、教会が混乱する歴史があります。

いわゆる、異端論争です。
この異端論争の決着は、私のこの話が終わった後に唱えます「ニケヤ信経」が確定することによって一つの決着がつきます。
451年のカルケドン会議で今の三位一体が落ち着きました。

もう一度全体を眺めてみましょう。
旧約の時代が終わり、イエスの時代が始まります。イエスが十字架に付けられ、殺され、三日目に復活します。そして、イエスが昇天し、先週の日曜日に聖霊が降りました。
その後の時代において、福音記者たちが福音書を記します。パウロも多くの書簡を残します。
そして、様々な三位一体の理解を行うようになります。まだ、三位一体の神の理解が進んでいませんでした。

そして、325年のニカイヤ公会議と、451年のカルケドン会議を経て、ニカイヤ信条が三位一体の神を明らかにしました。
その後、8世紀以降からこの三位一体の神を意識した礼拝が始まるのです。

いよいよ三位一体とはどういうことなのかというお話しです。

「神」はすべての始まりなので、特にご説明は要らないかと思います。
神の存在は無条件にありきです。
その神によって私たち人間が造られている。
私たち人間は、神によって創造されたものとして存在しています。
この世界、そのものが神によって創造されたものです。

では、神の子である「イエス・キリストは、神によってつくられたのか。」と考えますと、ニケヤ信経には「造られず生まれ」と書かれております。
イエス・キリストは神の被造物では無いということがここで宣言されております。
「世々の先に父から生まれた独り子」と書かれております。
ヨハネ福音書の冒頭に、「初めに言葉があった、言葉は神と共にあった。」「言葉は肉となって私たちの間に宿られた」と書かれております。

先ほど読まれました創世記でも「神は言われた『光あれ。』」と、まだ人がつくられる前に、神は言を発しています。
言の相手が存在していないなか、すでに言が存在しています

神があり、神と共に初めから言葉があり、霊がある。この3つが最初からあります。

そして、「私たちを救うために天から降り、聖霊によっておとめマリヤから肉体を受け、人となり」と、言葉は肉となって、救い主として人となります。
つくられたのではなく「人となる」という表現で表されます。

三つが初めからあり、その三つの存在、これを三つの位格と言いますが、三つの位格をもって三位一体の神と私たちは理解します。
位格と言うことを言い表すために、三位一体と言っているとも考えられます。

さて、この様なことを、知ったのは神学校に入ってからのことです。正確には、昨年の10月頃の授業から、理解し始めました。
父と子と聖霊が一つの神だというのは、言葉としては良く理解しています。と言いましたが、では、それがどういうことなのかを知らなかったのです。
もっと言えば、ニケヤ信経をいつも唱えていながら、この様なことが書かれていて、はっきりと三位一体の神について私自身が告白し宣言していることに気がついていなかったのです。

このことを表明しているのは、ニケヤ信経だけではありません、この後の感謝聖別においても、このことが書かれ、唱えられています。「み子は、父の生きたみ言です」と。後ほど出てきます。
また、「聖霊によっておとめマリヤから肉体を受け人となり」そして「聖霊は命の与え主」と。そして、陪餐後、一番最後に一緒に唱える箇所においては、「聖霊によって私たちをこの世に使わし、み旨を行う者とならせてください」と、聖霊の働きを期待しています。

この聖餐式を通して、三位一体の神を賛美しイエスの生涯を記念し、私たちがみ旨を行う者として、この世界で働くことを宣言しているのです。

 

先週の教会委員会の冒頭に、教会委員の方が開会の祈りを捧げました。
その祈りの言葉に、小さな感動と喜びを感じたことをお伝えしたいと思います。

一字一句は正確ではありません、間違っていると思いますが、おおよその意味を受け取っていただければと思います。
「この教会に、一人でも多くの若い人たちが来られるように、私たちが考えて、働けるように導いてください」
という祈りを持って教会委員会が始まりました。

ずいぶん昔に、「教会委員会は長くて、つまらなくて、議論がグルグル回って、本当にどうしようも無い会議だ」と愚痴をこぼしたことがあります。実際に、そのような教会はいくつもあります。建設的議論が出来ない状態です。
その時に、ある方が「教会委員会は、夢を語るところなんだよ、宮田君」とおっしゃって下さった方がいらっしゃいました。

その時は、「とはいっても現実的には非建設的だから難しいでしょ」と思ったものです。

しかし、その後に教会委員として、実際に教会運営に関わるようになり「夢を語るところだ」という思いを持って、夢を語り始めると、最初はいぶかしく思われていた方々も、少しずつ夢を語るようになり、教会の将来を語るようになってきました。

教会の将来は、明るい未来が待っているかと言えば、なかなか先が見えないというイメージが近いのかもしれません。
しかし、夢を語ることによって、どうすればその夢が実現するのか、それは夢なのか希望なのか、それとも、単なる妄想なのか、色々と思い巡らすことになります。

そして、その語る言葉の一つ一つに、イエスだったらどのように考えるだろう、イエスだったらどのように発言するだろう、と思い巡らします。

それでも、なかなか進まないときは、「もしかすると、この人の発言はイエスの言葉なのかも知れない」と、「もし、この発言がイエスの言葉だとしたら、どのように受け止めよう。」と考えるようになります。

祈りに用いられる言葉に「主の御心にかなうように」や「主のみ旨に叶うように」と、その主体は主であることを望み、主によって遣わされている私たちを意識して祈りをし、話し合いが始まります。

いま、私たちが発する言葉や行動が、主の御心に適っているのだろうかと意識しながら生活をし、それによって、相手に対しては、「この人の発言や行動は、イエス・キリストにならっているんだ」というところまで行けたら、こんなに素敵なことはありません。
現実には、なかなか難しいわけですが。

「一人でも多くの若い人たちが来られるように、私たちが考え働けるように導いて下さい」という祈りにおいて、今日のマタイによる福音書の28章20節の一番最後の句に「いつもあなた方と共にいる」とイエスがおっしゃったように、私たちは、常にキリストと、ともにいるんだということを改めて確認したいと思います。

私たちは、洗礼を受けて信仰生活を送っている人も、洗礼をまだ受けていないけれども、キリストの枝となり、キリストの信仰生活を送っている人も、ともに集まり、ともに礼拝に参列し、ともに信仰生活を送っています。

イエスによって弟子が派遣されたように、私たちも、イエス・キリストによって派遣されている弟子たちの末裔です。

本日の使徒書をもう一度読んで、おわりに致します。
コリントの信徒への手紙二 13章11節から

終わりに、兄弟たち、喜びなさい。
完全な者になりなさい。
励まし合いなさい。
思いを一つにしなさい。
平和を保ちなさい。
そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。
聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。
すべての聖なる者があなたがたによろしくとのことです。
主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。

イエス様とともに、聖餐式を続けましょう。