2017年1月28日(土) 紫布のリディア

2017/01/28
聖光教会 夕の礼拝お話

マルコによる福音書7章1節〜23節

「外から人の体に入るものは、人を汚すことが出来ないことが分からないのか。」とイエスは群衆に言われました。ユダヤ教の食物規定では、汚れたものを食してはいけないという決まりがありました。
汚れたものを食すると言うことは、食した人自身が汚れてしまうと言う教えです。「それは人の心に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される」と。
ユダヤ教の食物規定を批判しています。

そして、「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。」とイエスは言われます。

食物規定の批判ですが、それとともに、人を汚すものは「人から出てくるのだ」と言われました。

「胸に手を当てて思い返しましょう」という表現がございます。
胸に手を当ててみても思い返すと言うことは、早々沢山あるとも思えません。
何かの拍子に思い出すことの方が多いのではないでしょうか。

私たちは人から出てくる「行動や仕草、会話や表情」でその心模様を相手に表しているのだと思います。
そして、残念なことに、悪い思いや到らない思いというのも「行動や仕草、会話や表情」で相手に伝わってしまいます。

悪い思いや到らない思いの時こそ、不用意に相手に伝わってしまうものです。

私が最初に洗礼の名親となり教父となったのが、22歳ぐらいだったと思います。
高校生の女性でした。彼女は同級生たち何名かと教会に通っていて、洗礼を受けることに決められたのです。
洗礼を受けるにあたり、教父母が必要と知り、私と教会生活が長いご婦人の2名で名親を引き受けました。

洗礼名は彼女自らが見つけ、探してきた「リディア」です。使徒言行録に登場する「紫布の商いをする女性」です。彼女がどのような理由でこの名前をつけたかは存じ上げませんが、聖書には1カ所のみに出てくる女性です。彼女は洗礼をうけたのち、しばらく教会に通っていましたが、じきに足が遠のいていきました。

そのころ、彼女の同級生たちや教会の青年たちは多くいて、毎週教会が賑やかだったことを思い出します。
その同級生の一人の方に、あるとき私の仕草が気になると言われました。何かなと聞いてみますと、「右手で胸をトントンと叩いているけど、なにか胸が苦しかったり、気になることがあるの?」と。
最初、言われていることが分からず、「なにそれ、分からないけど」と答えたのですが、しばらくして「ほらそれ」と言われ、「胸を打つ仕草」をしていました。

ちょうど、十字を切る習慣が身につき始めた頃で、十字を切る最後に、胸を数回叩くという仕草が癖になっていたのです。当時は、礼拝奉仕でお香を振っていましたので、お香を振る回数とほぼ同じ、2回を一組にして、3回ほど胸を叩いていました。

そのくせが、手慰みとともに、普段でもトントンと胸を叩いていたようです。
自分でも驚くと共に、トントンと叩くたびに「またやってる」とからかわれながら「いやいや、祈ってるんだよ」と、楽しい時を過ごしていました。

たしかに、毎週礼拝奉仕をして、十字を切り、その習慣が変なクセとして胸をトントンと叩いているというのは、ある見方をすれば、まじめなクリスチャンに映っていたのかも知れません。

しかし、バブルがはじけたとは言え、まだまだ青年層にはその実感がなく、比較的余裕を持って遊んでいた時期ですし、楽しいことに夢中になっている時期ですから、軽はずみな行動や言動というのも多々あります。
のちになって知ったのですが、リディアの洗礼名をいただいた彼女は、洗礼を受けることによって、新しい自分に生まれ変わるのだと信じていたようです。それ自体はその通りなのですが、もっと神秘的な、劇的な、実感を伴って自分が変わるのだと考えていたようです。
しかし、大人になって洗礼を受けた方ならご存じのとおり、洗礼そのもので、なにか実感を伴って自ら変化すると言うことは、とても少ないかと思います。

彼女は、大いに失望してしまったのです。そのようなことだというのは、当時は私も、もう一人のご婦人も全く知りませんでした。
そして、とどめを刺されるのですが、名親である私の言動が「とてもクリスチャンとして尊敬できない」という思いを抱いていたというのです。
教会を離れて随分たってから、当時の同級生からお伺いしたのです。

しかし、その同級生も、私の言動の「何が」というのはわからないと言うのです。直接なにか傷つけたり、拒絶したりということではなく、その私の行動や仕草が、彼女の思っていたキリスト者と重ならなかったのだと思います。

洗礼にいたるまでの彼女の心模様はよく知りません。また、洗礼によって人生が全く変わってしまうと思われていたということも、キリスト者が品行方正なひとだということも、どのような関係の中で考えてしまったのかも分かりません。もちろん、当時の洗礼準備がどのようなものだったのかも気になります。
しかし、だとしても、その原因のひとつに私の存在があるのです。

時は既に遅く、教会から離れて行ってしまいました。

この出来事は、彼女の洗礼から気づきまでずいぶん長い年月がありました。
その間も、十字を切るときに胸を叩くクセは相変わらずで、時に「聖職の懺悔じゃないんだから」と言われることもありましたが、十字を切るときに胸を叩く仕草は、無くなることはありませんでした。
リディアと出会い、結果的に傷つけ、離れて行ってしまった出来事は、私にとっての十字架のひとつです。

「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。」
意図して悪い思いを出すだけではなく、自らが自らによって汚れて行ってしまうこともあるのです。

普段に於いても、また礼拝に於いても、十字を切るときに胸を叩いています。
胸を叩くたびに、リディアを思い、私から出る言葉、私から出る行い、それが御心に適っているのだろうかと自問自答しています。

キリスト者として、御心に耳をすませて歩んでいきたいと思います。