戦って生きた「雨宮まみ」に誓う。

2016年11月26日 聖光教会 夕の礼拝 お話し

今読まれました、フィリピの信徒への手紙2章の小見出しには、キリストを模範とせよと書かれております。

3節以下に、
「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。」
と記されており、このような関係性のなかで、生きることが出来るようになれば、多くの人が救われるのではないかと思います。

「戦って生きる」

この場合の戦いとは、闘争や闘病などの闘うではなく「いくさ」と書く戦いです。

11月15日に作家「雨宮まみ」という女性がこの世を去りました。彼女はこの9月に40歳になったばかりでした。
彼女とは、2年以上にわたりテレビ番組の演者さんとスタッフという関係で、同じ時間を過ごしておりました。お友達になる訳でもなく、特に知り合いになる訳でもなく、時たま挨拶をして、少し会話をする程度であり、私の事はスタッフの一人にしか過ぎなかったと思います。

彼女の死生観というのが、私とほぼ共通しており、とても驚くと共に、どうして、あの時にちゃんと声を掛けて、せめて知り合いにでもなっておかなかったのだろうかという後悔をしております。

彼女は「生きる」ということに意味がないということをいつも思っていたのだと思います。
仕方なく生きている、自ら命を絶つことも出来ず、かといって家族が居るわけでもなく、自分のために生きている、じゃぁ、その自分とは生きる価値があるのだろうか。今、この世から去っても、だれも何も困ることはないじゃないか。と。

自分の人生の先のことなど、想像すら出来ないともいっています。長生き願望も全くありません。
私も同じです。私自身の死への恐怖というのが全く実感としてないのです。

そのような彼女が実は多くの女性達に勇気と希望を与えていたのですから、このような死生観も大切にしないといけないかなと思っております。

一緒に作っていたテレビ番組は「女性を解放する」というコンセプトの番組でした。
この社会にあって、男性からみた女性像を生きていかないと生きていけない様な雰囲気の中、取り立ててモテるわけでもなく、ちやほやされるわけでもなく、さらには女性集団の中でもヒエラルキーの下の方に位置づけられ、それでもかたち作られた女性像を求められるうちに「女子をこじらせて」しまった彼女自身が、雨宮まみ、ひいては「彼女自身そのまま」で意見を言い、話す事が出来、それを電波に乗せて社会に送り出すことが出来ることを、とても楽しんでいらっしゃいました。

この「女子をこじらせて」は2011年にWEB連載記事から書籍化されましたが、彼女の言葉、メッセージに、とても多くの女性達が共感し、励まされ、生きる希望を受け取っていました。

それだけ、社会的女性像というものが大きくのしかかり、自分を生きることよりも先に「女性」を生きることが求められているのだと思うと、いまもこの社会の中で苦しみ、悩んでいる方々にとって、彼女がこの世を去ってしまったことの大きさは、とても言葉では言い表せません。

決して小さくされているわけでもなく、虐げられているわけでもないのにもかかわらず、社会的女性性を知らないうちに提示され、それに生きようとして、こじらせてしまう。彼女はこの様な状況を受け容れることから始まり、それが言葉になりメッセージになったときに、彼女の言葉に多くの女性達が共感し勇気づけられました。

しかし、彼女は、この世から去ってしまいました。

同じような死生観をもち、同じように戦って生きていたのにもかかわらず、こちらは今生きていて、一方は40歳という彼女にとっての大きなターニングポイントで死を迎える。

私自身は、この戦いの生き方から戦線離脱をしました。

いくら戦っても戦っても、この世界を相手に勝つことが出来ない現実にぶつかり、さらに戦おうとするのですが、そのエネルギーが尽きてしまったのです。
死を迎えるしかありません。

たまたま、私には、家族がおり、キリスト教の信仰者でもあったために、エネルギーがなくなってしまったときに、それを受け容れてくれる環境というのがあったのだと思います。
これが、一人暮らしで家族が居るわけでもなく、戦うにもエネルギーが尽きてしまったら、選択の余地というのはなくなってしまうのだと思います。

そこには、何も無い世界だけが漠然と目の前に広がっているだけですから。

キリストの信仰者であっても、多くの方がたが、命を絶っていますので、決して「信仰が支えになるからキリストを信じなさい」という言い方はあたっているとは思いませんが、最後の支え、砦とでもいうのでしょうか、雨宮まみのように戦って生きてきた者にとっては、戦線ですでに大きなダメージを受けており、離脱したらすべての人生が否定されるような状況に陥りますので、信仰というものの大切さをあらためて感じております。

それは、私という一人の人間が、神との関係の中でのみ築くことの出来る関係だと思われます。

そして、その受け皿として、今日の聖書に書かれているように「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。」ということを実践している教会があり、そのように生きていることを実感し、このような生き方があるんだ、ということを多くの人にちゃんと伝わっていれば、戦線離脱したときに「おかえり」と迎えることが出来るのではないでしょうか。

このような生き方を疲れた人にさせるのではなく、受け容れる器としての私たちが、キリストに生きているのかということです。

私自身も、もう少し彼女に声を掛けることは出来なかったのだろうかと、後悔しています。
「イエス・キリストが主である」と公に宣べることを躊躇したのではないかとも思います。

キリストに倣い、キリストに生き、キリストを伝える者として、丁寧に歩んでいきたいと思います。

 

2016/11/26
聖光教会 夕の礼拝