神戸聖ミカエル教会 8月28日(日) 夕の礼拝 奨励
「神戸聖ミカエル教会 8月28日(日) 夕の礼拝 奨励」
昨日今日と行われたキャサリン堀江輝美子さんの葬儀。神戸聖ミカエル教会実習の最後の奉仕がこのご葬儀でした。堀江輝美子さんとはお亡くなりになってからの出会いでしたが、この出会いが、私とキリスト教との出会いを思い出させるものだとは思いもよりませんでした。
小学4年生の3学期から受験戦争に参加させられ、良くわからないまま毎日夜遅くまで進学塾に通っていたことを思い出します。どこの中学校を受験するのかは、偏差値でおおよそ決められ、大人の都合や、どこの大学に進学するのかが前提での中学校選びが行われていました。
しかし、そのような自分の意思が反映されない仕組みに反発を覚え、受験した中学校の一つは、全く行く気がないうえに、合格ラインだったこともあり、受験には行きましたが、白紙でテストを提出しました。
自分で行きたいと思った学校は、自由と自主性を重んじていて、さらには、当時私が大好きだった女優の薬師丸ひろ子さんが大学生で在学していた学校だったので、校風も合う上、好きな女性にも会えると言うことで、受験することにしました。学校の偏差値は決して高くなく、親も含めて周りからは随分反対されたことを思い出します。
実際には、自由と自主性は看板だけであり、管理教育と不自由な学校生活が続き、1年と1ヶ月で、登校拒否をして、そのまま学校を辞めてしまいました。
あまり良い思い出があるわけでもなく、そういう意味でも心の傷なのかも知れません。
成人してから、心の傷を癒すために、数回ほど知り合いと学校に行ってみたことがあり、校内を歩いてみたりして、原体験を振り返るような事をしてみたことがあります。
今日の葬儀で歌われた「うるわしの白百合」は、中学校での原体験を思い起こさせ、さらにはキリスト教に出会ったことを思い出させる歌になるとは、昨日の通夜式まで想像もしていませんでした。
通夜式で「うるわしの白百合」が流れた途端に、遺族の方々はまだ涙を流していないのにもかかわらず、私が先に涙を流してしまいました。13歳に一気に連れ戻され、歌うことすら出来ず、聖書朗読のために気持ちを整えることに必死でした。
中退した中学校の音楽の授業は、合唱のみ行われており、合唱スタイルで全員が立って、賛美歌を四部合唱で歌うというのが音楽の授業でした。
週1回の礼拝の時間もありましたが、礼拝自体は良くわからない睡眠時間だったような記憶があります。
その音楽の時間では、四部合唱で賛美歌を完成させることが授業ですので、一曲の賛美歌を飽きるほど歌うことになります。ハレルヤコーラスは、それこそ体で覚えるほど歌いました。
入学してすぐの頃、合唱スタイルの音楽の授業に驚き、さらに賛美歌が歌われることにさらに驚いたものです。賛美歌を沢山歌うのですが、「うるわしの白百合」と「緑も深き」はとても気に入って、口ずさむほど好きだった事を思い出しました。
「緑も深き」は聖歌集にもあり、聖公会でも良く歌われているので、自分自身を振り返るような曲とはならなかったのでしょう。「うるわしの白百合」は聖歌集に含まれていないので、余程のことがない限り聞くことがありません。
おとといの木曜日に堀江輝美子さんの亡くなられた病室に伺い、愛唱聖歌を伺ったときに出てきた曲が「うるわしの白百合」でした。思わず、私は口ずさんで「この曲ですよね」と応答していました。
それから一日中「うるわしの白百合」が頭の中でずっと鳴り続けました。
あの頃、この歌を良く歌っていたなぁ、よく口ずさんでいたなぁとぼやぁっと思い出しながら。
まだ、この頃はキリスト教には興味があるわけでもなく、十字架が掲げてある講堂にいっても、なにも思わなかったことを思い出します。
その後、14歳でアルバイトを始めたり、一日中テレビやラジオ、新聞や本に費やしていたり、コンピューターや、コンピューターミュージックにハマったりと、学校に行っていない分、好きなことを好きなだけやっていたように思います。
数年後の17歳の時に、家のすぐ目の前にある日本聖公会の三光教会になんとなく行きたくなったのです。クリスチャンで生きていきたいという、何の根拠もなく、それ自体になんの意味も無く、キリスト教も知らないまま、クリスチャンで生きたいという、今思えば、謎の行動ですが、ただそれだけでした。
随分経ってから、なんで17歳の時に教会に行きたくなったのかなぁと考える事があり、いろいろ思い起こしていくと、中学校で出会ったキリスト教が、どうも始まりじゃないかと思われるのです。
自分が否定していた中学校が、自分の信仰のルーツだとすると、これはとてもつらい現実です。
とはいえやはり事実なので、「中学校がキリスト教主義だったから、たぶん、なにか知らないうちに影響を受けていたのかもね」と、軽く流していました。
聖職志願をし、神学生になるときに、「聖職をめざすのなら、過去の自分との和解が大切です」とはなむけの言葉を下さった司祭がいらっしゃいました。
これは困ったなぁと思ったものです。
いろいろと面倒くさい、自分の歩んできた道を振り返るなんて、出来ればしたくないことです。
しかし、昨秋の体験入学の際に、44年分の過去を振り返る作業をしました。それはとてもつらく、きつい作業でした。
妻にフォローしてもらいながら、過去についての気持ちの整理をしていきました。
そのふり返りの中で、驚くことがありました。つらく悲しい出来事や、思い出したくない事柄の一つ一つが、いまの自分にはどうも必要としているのではないかと。
「過去の出来事は変えることは出来ないけれど、過去の意味を変えることは出来る」という言葉があります。セミナー系でよく使われる言葉ですが、確かに意味を変えることが出来るんだということを実感したのです。
このことは、イエス・キリストの死と復活がまさしくこのとおりではないかと思われるのです。
キリストが十字架につけられ殺されてしまう。この出来事を変えることは出来ませんが、イエス・キリストの復活によって、十字架のキリストの意味が変わってくるのです。
「うるわしの白百合」の歌詞の意味は、今の今までよく知らずに歌っていました。
この曲はイースターの時に良く歌われる、イエス・キリストの復活を歌っている歌なんですね。
聖職志願をするにあたり、「過去の自分との和解」というテーマを与えられ、今までの自分について振り返るとき、まだまだ、忘れようとしている事柄に出会います。もしくは、突然に過去の自分と出会い頭にぶつかることがあるとでも言うのでしょうか、突然目の前に表れることがあります。
神様は、堀江輝美子さんを通して、唐突に過去の自分を見せつけてきました。それも通夜式で。
今に生きるキリストを思うとき、まさに天に召されようとしている人を通してまで、キリストは働かれているということを体験した出来事でした。
堀江輝美子さんの魂の平安を覚え、イエス・キリストの働きに感謝します。
*キャサリン堀江輝美子さんのご家族より、お名前の掲載許可を得ております。