2016年6月11日(土) 夕の礼拝 お話し
2016年6月11日
京都教区 聖光教会 夕の礼拝
黙想の時間、黙想すると言うことを大切にしています。
その一つに、私自身の今までの教会生活について振り返る時間を持つようにしています。
自分自身のふり返りと、これから歩む道がぶれないための「芯を探す」作業として、黙想の時間を持つようにしています。
本日の聖書箇所は、サウロがエルサレムに行き、弟子の仲間に入れてもらい、教会の基礎が固まって信者の数が増えていったと記されています。
出身教会の三光教会85年史の記事を読んでいましたら、天国に召された藤井慶一執事の寄せ書きが掲載されておりました。藤井慶一執事は、私が最初に出会った聖職と言っても間違いないかと思います。
その寄せ書きには、ちょうど中高生がいなくて中高生会が開店休業状態から、活発に活動をしていた私たちまでに続く経緯が書かれておりました。
最初は香蘭女学校の中学生達が教員を通して10人ほどが突然現れるところから始まります。
その教員の1人は、後に横浜教区で司祭になられる大居先生と書かれております。
中高生クラスから、礼拝につながり、教会の様々な活動にそれぞれ関わり、人がいるところには自然と人が増えてくるようで、男の人たちも多くはアコライトで奉仕していたと書かれています。そして、その学生たちを日曜学校の先生たちがオルターギルドに迎え入れたことが、その後の大きなきっかけになったと記されています。
すこし記事を読んでみたいと思います。
—三光教会 85年史より 引用———
典礼備品の名称はおろかアイロン一つ満足にかけられない彼女らを、それこそ手取り足取りで、なだめすかし・・次第に彼女らも交わりにとけ込み始め、また今まであまりステパノ会(日曜学校)に参加しなかったグループも礼拝前の短い交わりの時間から礼拝後の時を過ごすようになったように思う。
実際、オルターの仕事を何かと手伝う男性も現れてきた。
もっともクリスマスの前、熱心にトーチをピカピカに磨き上げた彼女たち
「藤井先生、これは○○君の持つトーチだからね、ちゃんと持たせてね。それでこっちは○○クン!」
やれやれ・・内田ファーザーや先輩方に聞かれたら目を丸くするような話しもまた実情ではあったのだが・・・。
祈りを持って静粛を旨とするべストリーで、おしゃべりに夢中になって持っていたアイロンで危うくリネンを焦がしかけたり〜、全く目をおおわんばかりのオルター振りではあったが、冷や汗半分でも片目をつぶりながら見守ってくれた先輩方には頭がさがる思いであった。そして彼女らも、そうした働きの中で次第に自分たちなりの教会生活を身につけていった。
—中略———
しかし何より香蘭女学校生、玉川聖学院生、信徒の家族、ステパノ会以来のメンバー、それぞれに学校も生活感覚も微妙に異なる個性が、時にはちょっとしたライバルとして、また助け手として・・・お互いにない魅力としてお互いに大切にされてきた。結局、そんな教会ならではの仲間たちの関係こそが、お互いをお互いに教会に集わせることになったのではないか。
—引用終わり———
と記述されています。
私はこの藤井慶一執事との出会いを通して、この記念誌に書かれていることをそのまま体験してまいりました。
厳しい三光教会の雰囲気の中、藤井慶一執事の眼を通して、相当、破天荒な状態だったのだと恐縮します。
エアコンのない死ぬほど暑い礼拝堂で、半ズボンにTシャツでキャソックを着て奉仕したこともありました。
ピューリフケーターほかのリネン類を洗濯機で洗って叱られたこともありました。
土曜日は教会でオルターギルドを行い、日曜日は朝から晩まで、さらに深夜まで遊んでいたことを思い出します。
このときの香蘭女学校の中学生だった妻に、この内容について改めて確認してみましたところ、「トーチを磨いていたのは誰々」で、「アイロンで焦がしそうになったのは誰々で」と、まるで昨日のように話していました。
そして、妻の話ですと、それまで奉仕活動に関しては、「洗礼堅信を受けて、奉仕教育を受けた者だけが関わるように」というのが絶対的に守られてきたそうですが、このタイミングの時に、洗礼堅信、奉仕教育などを条件とせず、だれでも、性別に関わりなく、特に中高生でも関わらせてあげましょうという司祭からの提案があり、先ほどのような、にぎやかな奉仕活動が出来るようになったとのことでした。
また、人が増えたというよりは、埋もれていた中高生や学生などを掘り起こしていったというほうが近いかも知れないとのことでした。
教会の活性化と常に言われ続けていますが、「教会に受け入れる」ということが出来ているのだろうか。
ただ単に教会という組織に組み入れるのではなく、
「私があなたを受け入れる」ということ、このことは
「私はイエス・キリストに受け入れられているんだ」という事が実感できていないと、実践に結びつかないんだと思います。
三光教会85年史を読み返してみて、色々なかたち、色々な思いの中、私たちが受け入れられていたんだということを知らされます。
人間的思考の中で、拒絶されることもあり、傷つく事もあります。
それは私に限らず、人間関係の中で、多くの人の躓きを見てきました。
藤井慶一執事は
「互いにない魅力として、お互いに大切にされてきた。結局、そんな教会ならではの仲間たちの関係こそが、お互いをお互いに教会に集わせることになったのではないか。」と述懐しております。
「お互いに大切にされてきた」
一方的な「愛=大切」だけでは成り立たず、お互いが寄り添い、お互いが受け入れ合うということ、それは「私を受け入れて!」とか「なぜ受け入れてくれないんだ!」と叫ぶことではなく、まず最初に、「主であるイエス・キリストに受け入れられているんだ」と私自身が気がつくことです。
そして、そのイエス様を受け入れることによって、お互いが愛し合う関係、お互いが大切にされる関係をイエス様を通して築くことができるのではないでしょうか。
父と子と聖霊の御名によって アーメン