認知という問題
認知という問題は、これまた難しい。
餅 -> のどに詰まる可能性がある。
飴 -> のどに詰まる可能性がある。
ゼリー -> のどに詰まる可能性が無い、と思っている。
蒟蒻 -> のどに詰まる可能性が無い、とたぶん思っている。
おもちゼリー -> ねばねばしていたら、のどに詰まるかも。
飴ゼリー -> ゼリー状なら、危なくないかも。
蒟蒻ゼリー -> そもそも危なくなさそうだから、平気でしょ。
三段論法ではあるが、このように認知される可能性は大きい。
すでに認知されている事柄、
この場合「餅はのどに詰まる可能性がある」が、前提の場合は、
多少なりとも、危険性を感じる。
認知されていない事柄、
「ゼリーは危険とは思っていない。」
この組み合わせだと、安全な方に傾いてしまう。
危険回避行動が、たやすく取れないのは、認知度によって、「大丈夫だろう」という方向に傾いていってしまうからに他ならない。
そのため、何度も何度も繰り返し、危険をアピールし、場合によっては体験を交えて、認知度を上げていく方法が必要だろう。
しかし、すでに安全だろうと認知されている事柄を組み合わせたものに、「危険」という認知を植え付けるのは、とても難しい。
なぜならば、組み合わせる元の物、この場合は「ゼリー」と「蒟蒻」が、危険という認知にならないからだ。
だとするならば、蒟蒻ゼリーという製品名の一考が必要だろう。
また、形状も検討する必要があるだろう。
命名も商品も秀逸であり、かつ独創的商品ではあるが、危険回避という視点では、自らのリスク管理が出来てなかったように思われる。
安全対策とは、あらゆる視点からの考察が必要であり、すべてを満たすことは不可能だとは思う。
しかし、利用する人、食する人、多くの人の中には、相当オバカチンが存在することを認識しないといけない。
オバカチンが「頭が悪い」と言っているのではなく、思いも寄らない考え方が普通に存在するということだ。
作る側は、自らの常識の範囲で作るのだから、その範囲外の常識を、常に意識しないといけないと言うことである。
今、見えている空が本当に青いのか、寒いと思っているこの空気は本当に寒いのか、
疑うのではなく、どのように認知されているのかが、大切だと思う。