キリスト教会はいつまで演歌を流し続けるのか

「新約聖書解釈の手引き」日本キリスト教団出版局

日本聖公会の高齢化が止まらず、それ以上に若年層の激減について、長い間憂慮する問題・課題として常に検討されてきている。
しかし、それを検討している全体が高齢化している現実はなかなか理解されていないように感じている。
総論は単純に世代交代が出来なかったということなんだろう。

で、それとは別に、聖職の語る言葉や説教が高齢者向けの言葉や説教に陥ってしまっているんじゃないかとも考えている。
例えるならば、演歌が流行っていた時代の人たち向けに今もまだ演歌を作り演歌を聴いてもらおうと努力している状態とも言えるだろう。
そして、その演歌をどうにかして若い人たちにも聞いてもらおうと努力しているのが今の私たちの教会ではないかと思える。

聖職者たちはそれぞれの時代に神学を学んできている。そして、卒業後は独学で学び続けない限りは自分が学んできた神学が唯一の拠り所となってしまう。
それは、これを書いている私自身も同じである。
2016年から神学校で学んだ者と1980年代に神学を学んだ者とは、聖書解釈自体が全く違うという状態が散見される。
単なる世代間の問題ではなく、それこそ天地がひっくり返るくらいの学術的解離が存在している。
ところが、語る聖職も高齢ならば聴く信徒も高齢なので、聖書解釈が古いままでも何の違和感もなく聞き、それを受け入れる土壌が存在する。

2016年に発売された「新約聖書解釈の手引き」の序論において、廣石望教授は次のように書いている。

関する解説書としては、次の2冊が代表である。
1979年「聖書学方法論」日本基督教団出版局
1996年「聖書学の方法と諸問題」日本基督教団出版局

1979年の本は、1970年代までの研究状況を踏まえたもの。
1996年の本は、1970年以降に新しく発展した批評学の代表的存在として「文芸学的方法」ないし「文芸批評」が紹介されている。

これに対して本書の特徴は、聖書解釈が一挙に多様化し、その傾向は現在も続いている。「解釈学的観点」という一つの範疇にまとめることが到底不可能である。

となると、どの時代に神学を学んだかによって聖書解釈の仕方が拡大されていて、それまでのものと違うものになっていることがわかるだろう。
そして、2016年発売の本は、1970年代以降に一気に多様化した現在の姿の一部を紹介したものになる。

本が出版されても、それをすぐに取り入れて学ぶということはなかなか無いだろうから、タイムラグを考えても1990年代までに学んだ人は1970年代までの神学の上にあり、1990年代以降に学んだ人は多様化しているただなかで学びが進み、新しいものを取り入れてきた人はそれなりの新機軸を受け入れた人と受け入れなかった人に分けられるのかもしれない。
そして2000年代以降もこの状況は続き、新しいものと古いものの選択は、学ぶ側にもまだ選択の余地があったのかもしれない。

私が学んだ2016年以降は、それら多様化した状態の中である程度のスタンダード的な形が用いられているように感じていたから、どう甘く見積もっても1980年代までに学んだ人たちとは、聖書の見え方がまるで違うのではないかと感じている。

さらに、ここ10年ぐらいは1970年代の生まれの研究者たちが研究成果を書籍他で発表するようになってきて、この2000年代以降に学んできた人たちの時代になってきている。

さて、ここまで書いて気がついたことだと思うが、高齢化した信徒は、自分が若かったときに受け入れた理解をそのまま今も保っていることがある。
教会全体や教区、また聖職たちが常にアップデートを怠らず、今の私たちの言葉で、今の聖書解釈を語っていたら、自然と信徒もアップデート出来ていたのかもしれない。
しかし、神学のアップデートはなかなか個人では、よっぽどの物好きか研究者じゃなければ、なかなか学ぶことは少ないのかもしれない。
それこそ、釈義書1つ取ってみても、かつての釈義書を大事に使っているのかもしれない。

信徒もアップデートしなければ、語る聖職もアップデートしていないと考えると、いつまでも演歌を作り演歌を売り続けている状態と同じようにその風景は見えてくる。
すでに時遅く、今から流行り歌を作り流行り歌を売ろうとしても、流行り歌を作れる人材はすでにいないのかもしれない。
そして今から流行り歌を売ろうとしても、その売り方すらわからないのかもしれない。

教会の若返りを本気で考えるのであれば、どう考えても若年層による若年層の組織で運営しない限り、どうやっても無理筋だと思っている。
それも40歳未満という制限を設ける必要があるだろう。もちろん聖職も40歳未満。

40歳以上の人たちが一生懸命考えても、やっぱり古い思考からは抜け出せないと思うし、こと教会に関して言えば、古い思考を脈々と受け継いできてしまっているから、40歳以上でさえ高齢者的環境に浸ってしまっていると思っている。

ランベス会議においてカンタベリー大主教は、成長している教会は信徒が証しをしている教会である、という趣旨の話をしていたと思う。

今までの事を踏まえると、信徒が語るということは、さまざまな年齢の信徒が語ることによって、世代ごとの語りがあり世代ごとの共感があり、結果的に色々な人が集まることになって行くのではないかと考える。

特定の年齢の特定の聖職が語るのではなく、多くの年齢の人びとが語ることによって、それなりに人が集ってくるとも言えるのだろう。

それが結果的に、演歌だけではなく流行り歌を含めた色々な楽曲を提供できる状態になっているのではないかと考えられる。

演歌を続けていくか、流行り歌を取り入れるのか。
その決断の時期はとっくに過ぎてしまっているのだと思う。