2016年5月28日(土) 夕の礼拝 お話し

夕の礼拝 お話し

2016年5月28日(土)

「私、孤独なんです」、先日知り合った方の口から出てきた言葉です。

孤独という言葉を聞いて何を連想するのでしょうか。
家族などの血縁者がいない人でしょうか、友人がいない人でしょうか、かわいそうな人でしょうか。それぞれの方々が、それぞれのイメージを想起するかと思いますが、私は「私も孤独なんです」と反射的に応えていました。

妻がいて、子どももいて、楽しそうに生活しているのですから、どこが孤独なんだと思われるかも知れませんが、この孤独感というのは、なんともしがたい感情です。

「私、孤独なんです」という言葉を発したのが別れ際だったので、その後ゆっくりとお話しすることが出来ず、孤独について理解を深めることが出来ませんでした。

孤独感の中で生きていくことの苦しさと、その苦しさを抱えることの可笑しさというのが共感できたら、孤独でありながらも孤独からくる漠然としたモヤモヤした気持ちからの開放は出来るんじゃないかと思います。

唯一その事で話せたのが、一日家の中にいて、夕方になるまで天気が分からないことがあるとか、家から出る事がおっくうであること程度でした。

私は、友達が出来ず、「友人」という概念がいまだに良く理解できていません。どこからが友人で、どこからが他人なのかが良くわからないのです。
また、何人かで一緒に作業をしたり、食事をしていても、中心人物では無い場合は、常に所在なげな気持ちのままでその時を過ごしています。
そのような感じですので、「人から愛される」という状態が良く理解できていません。憧れでもあります。

ところが、今週「宮田君はもともと愛されキャラだよね」と言われてとても驚きました。

5月8日が誕生日だったのですが、東京の佐久間恵子執事から誕生日のお祝いと、神学館の皆様宛と手作りクッキーが届きました。
メッセージカードとともに送られてきて、それだけでも、確かに「愛されているなぁ」と涙が出るくらい嬉しかったのですが、皆さんにお裾分けをしたときに、先ほどの言葉をかけられたのです。
振り返っても愛された事なんて記憶に無いので、「もともと愛されキャラだよね」と言われ、過去も愛されていたのかと思い、ビックリした訳です。

よく言われることに「過去の事実を変えることは出来ないが、過去の意味を変えることは出来る」という話があります。

「愛される」という事柄について、まだ振り返っていませんが、もしかすると「あぁ、あの時のあれは愛されていたのかぁ」とか「間違いなく愛されていたなぁ」という出来事が沢山あったのかもしれません。しかし、過去を振り返るというのは決して楽しい作業ではないので、まだまだ時間が掛かるのかも知れません。

勉強をしながら、色々なラジオ番組を聴いているのですが、FM放送の番組でスクールオブロックという番組があります。

思春期の中高生を対象に、悩み相談だったり、エネルギーの発散だったり、結構人気のある番組をたまたま聴きました。

たまたま悩み相談の日だったのですが、私立中学に入学したけど学力について行けず退学になり、公立中学校に転校したけど、友人もいず、将来の夢も消え失せたと失望している15歳の少年。

17歳の高校生、リンパ腺ガンが見つかり、転移もしていて、将来が保証されなくなってしまった少年、14歳の時に同じ病気で友人を失っているから、自暴自棄になってしまったとのこと。

ラジオを聴きながら、インターネットのSNSで多くの人がメッセージをやりとりしながら、涙を流し、励まし合い、「孤独じゃないんだよ」と文字が飛び交い、それに応答する相談者。ラジオDJはつまらない励ましなどせず、つらさ、悲しさ、孤独感にただただ寄り添う言葉だけをかけて励ましていました。

ラジオのむこうの相談者は、泣きながらも笑いがこぼれてきて、その笑い声にかすかな希望がある事を願わずにはいられませんでした。

孤独なときに、つまらない励ましの言葉をかけられても聞く耳は持たないのですが、ただ寄り添うだけでいると、その孤独からくる可笑しさというのを共有することがあります。そして、止まっている足が一歩前に出ることがあります。

自分ではどうしようも無い状態に置かれたとき、神も仏もいないと思ってしまいます。なぜこんな状態になってしまったのかと、堂々巡りの思考に陥ってしまいます。

私たちは一体何を求めているのでしょうか。「食べるものと着るものがあれば、私たちはそれで満足すべきです」と先ほどの聖書では書かれています。今の時代に字面通りに受け取る必要はないと思いますが、キリスト者の基本として、この考え方はとても大切だと思います。

絶望に陥ったとき、孤独から来る不安に陥ったとき、どうしても、その反対にある欲望が満たされない事に対する不満だけが溢れてきます。しかし、その欲望だけが膨らんで行ってしまうと、信仰から外れてしまい、何もかも失い、さらに絶望や孤独に陥ってしまいます。

孤独の中にいる先ほどの方々に出来る事は本当に何もないかも知れません、しかし、神様は私たちすべてを愛して下さっています。孤独の中にいる人にも同じように愛してくださっています。

直接「神様はあなたを愛していますよ」といっても全く届きませんが、私たち自身が、神様から愛されていることをキチッと実感して、その喜びを内なる自分自身にしっかりと認識して持つことによって、私たちから現れる、言葉や行動、態度に、私たちが気がつかないうちに、神様の愛が表れてくるのではないでしょうか。

そのためにも、正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和、を追い求め続け、イエス様が常に共にいて下さって、孤独ではないんだよということを伝えていきたいと思います。

父と子と聖霊の御名によって アーメン