「ペトロかパウロか、いや、イエスでしょう」 ミカエル・タイムス巻頭言 2024.09.01


クリスチャンと呼ばれているわたしたちは、なにをよりどころに信仰を守っているのでしょうか。
日本的というか儒教的というか、道徳を強調する信仰形態は、必ずしもキリスト教とは言えないでしょう。
もし道徳を強調するようであれば律法主義者がイエスを糾弾する姿と重なるように思います。
イエスに声を掛けられてついて行った弟子のペトロ。イエスを真似て湖の上を歩こうとしたけど疑ってしまったために失敗したり、イエスとモーセとエリヤの会話(不思議な体験)を目撃したときは、思いつきで「小屋を三つ建てましょう」と言って、自分でもなにを言っているのかわからなかったと書き記されてしまったり、イエスのことを3度否定して、絶望にさいなまれたり。
それでもイエスに愛され、イエスにゆるされ、イエス復活の後は、ペトロを中心に「復活のイエスこそがキリスト(救い主)であるという宣教を始めました。
パウロが書き記したパウロの手紙シリーズ(パウロが書いていないものもある)を読んでいると、言葉のわかりやすさ、現代でもそのまま通じるような事柄に、つい道徳的信仰に傾倒してしまいますが、2000年前のごく限られた地域の社会を背景に記されたことに注意を払う必要があります。
ことに社会背景を無視して言葉だけを取り上げることによって、さまざまな差別や偏見が今もなお継続している事実は、クリスチャンとして向き合う課題の一つです。
ペトロのように失敗や挫折を経て、イエスによって立ち上がらせられた信仰は、わたしたちの信仰のあり方の一つです。
パウロが記した道徳的あり方も、わたしたちの信仰のあり方の一つであることはその通りです。
「証し」を初めとする「私の信仰」を語るとき、「あなたにとってイエスとは何者ですか」という問いをつねに意識したいと考えています。
「私にとってのイエスとは」。
イエスによって私はどのような影響を受けているのか、イエスによって私はどのような生き方を選択しているのか、イエスは私とどのような関係なのか。
「イエスの真似をして生きること」、イエスそのものになる事は不可能ですし、ともすれば怪しい信仰になりかねません。
しかし、イエスの真似をして生きることは、思いのほか容易であることもまた真理です。
イエスのこの地上での働きは、差別や弱くされている人に寄り添い、社会の不都合や不正を指摘しています。
この世界を創られた神は、この地上世界を愛しているという絶対をわたしたちが認めるのであれば、神が愛しているこの世界において、人間の力によって愛されていない状況にある一人ひとりの現実に目を向け、働きかけることが、イエスを真似て生きるクリスチャンとしての生き方であると受け止めています。
「イエスはこう言っていたよね」、「イエスはこうしていたよね」ということを、ほんの少し意識していると、豊かなキリスト教の信仰が、自分のこととしてリアリティーをもって身についてくることと信じています。

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