「自由への闘争・自由からの逃走」ミカエルタイムス巻頭言 2024.05.01
神戸聖ミカエル教会の教会報「ミカエル・タイムス」巻頭言から
「自由への闘争・自由からの逃走」
『知恵の正しさは、その働きが証明する』 マタイによる福音書11章19節
執事 ルカ 宮田裕三
人間はいとも簡単に、ひとを自分の思い通りにさせようとし、ひとを支配しようとし、自分の思い通りにならないひとを批判し、排除し、それでも収まりが付かなければ、殺めてしまう。
最近の聖書学からは、「罪」について聖書が初めに記してあるのはカインとアベルの兄弟殺しの話であるという記述が見受けられます。罪という言葉が最初に出てくるのは「人間を殺める」ことだというのです。
わたしたちの信仰生活の中心をなす聖書、その聖書の始まりのところに、人を殺める物語が記されている。わたしたちの持っている「人間の業(ごう)」なのかもしれません。
命を奪う殺人行為は「私にとって遠い存在」と感じるかもしれません。現実には日本国内でも毎日のように人の命が奪われていますし(2023年の殺人件数は912件!)、世界を見渡せば、あらゆるところで争いが起き、日々命が奪われています。また、命を奪うことはなくても、冒頭に書いたようにひとに対する関わりの中で、相手のことを忌み嫌い、関係を悪くすることも、人を殺める行為と底通しているように感じています。
かつてエーリッヒ・フロムは「自由からの逃走」において、自由を求め、自由な社会になる中で、私たち自身が「自由から逃れたくなる呪縛」に陥ることを指摘しています。結果、全体主義を求め、権威に服従しようとしてしまう。旧約聖書の民が王を求め、また、イエスを王としようとした民たち。
日本という文化文脈を考えると、わたしたちの生活習慣的に全体主義や事なかれ主義は親和性が高いのかもしれません。
イエスが宣教を始めた時、多くの人がイエスの言葉を聞こう、イエスを見ようと集まってきました。その一方で、イエスの語る言葉、イエスの行いが、当時の社会通念と相容れないと感じた人たちは、その不快感をあらわにします。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」ではありませんが、マタイによる福音書には「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」とイエスが批判されています。
「徴税人や罪人」の仲間になるイエス。
人間や社会の勝手な都合で不自由にされた人たちとともに歩むイエス。
私には、自由への闘争をこの世に求めたイエスと映ります。
「主イエス・キリストを着なさい」という表現がローマの信徒への手紙13章14節にあります。イエスの語る「解放」が、自由への闘争と同軸上に存在していると私は受け止めています。
自由からの逃走者となるのか、自由への闘争者になるのか。
キリスト者として生きることの豊かさを、神との対話の中で探し求めて歩みたいと思います。
神戸聖ミカエル教会 教会報「ミカエル・タイムス」5月号 巻頭言より