2015年のFacebookに面白い思考実験を書いていた
Facebookの思い出で出てきたテキストに、面白い思考実験を書いていた記事が出てきた。
聖職になるなんてことは全く考えていないとき。ただの信徒だったときの論考。
学がある者からしてみれば戯言の一つだろうと思う。
神学校で学びを始めて、隠喩と直喩、また寓喩ほかを知るようになり、この思考実験の面白さを体感した。
以下Facebook,2015年4月12日の投稿記事から。
たとえ話について考察していて、ちょっと気がついた。
聖職についての比喩からの考察。
wikiを鵜呑みにして三段論法的発想なので、戯言の域です。
「○○のようだ」や「肩を寄せ合って」や「というよりも」を始めとする比喩を多用する文章に違和感があり、こういう言い回しって、○○句という言い方があるのだろうかと調べてみた。
慣用句でもないし、何だろうかと。
「例え 表現」とググってみたら、wikiの「修辞技法」というのが出てきた。
その中に「直喩」というのがあり、「おぉこれだ」とわかった。
wikiの鵜呑み中。
直喩が野暮だと言うこともわかった。
で、続き、に「隠喩」というのがあり、今どきのスマートな表現として通用するらしい。
「なるほどねぇ」と「直喩」のリンクを開いて、
”典型的には「雪のように白い」「ひょうたんに似た形」「死ぬほど退屈」”
などと読みつつ、
”しかし比喩でなく「神は独り子を与えたほどに世を愛された」などという言い方でも使われる。”
おっ聖書が出てきた。
じゃぁ隠喩は何と書いてあるのだろうかと。
「隠喩」(メタファー)
http://ja.wikipedia.org/…/%E3%83%A1%E3%82%BF%E3%83%95…
”人生は旅だ。私と一緒に旅をしてみないか?”
おぉ、何となくかっちょいい。
読み進めていくと
古典隠喩として聖書が出てきた。
”わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっていれば、その人は実をゆたかに結ぶ。”
”私は、世の光です。私に従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです”
ん!?
まてよ、「直喩」は「自分が見た対象者や対象物を例えている」けど「隠喩」は「自分自身がすでに揶揄の対象に入っている」んじゃないのか。
これ思いのほか根の深い問題じゃないかと思ってしまった。
聖書の世界で比喩が用いられていて、「隠喩」が多用されているとすれば、その比喩にはすでに事実としての関係性が存在していないと成り立たない。
”わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である”
「直喩」だと”あなたがたは、まるでぶどうの枝のように見える”となるのだろうか。
「枝に見えるの」ではなく、「枝である」と言い切られている。
以前「あなたがたは、私たちといっしょに歩くことが出来ますか?」と発話された聖職がいた。
これも「直喩」を用いた表現なんだと思う。
「隠喩」の世界に生きていれば「すでにもういっしょに歩いちゃっていますね。これからどうやって歩いて行きましょうか」と今ある関係性の存在を認めて、ともに苦悩するのが聖書の世界観じゃないかと。
「直喩」を多用するというのは、それだけ聖書の世界・キリストの生きる道から相反する関係にあるように感じる。
「直喩」を用いた場合、用いる「私」という存在が「俗的わたし」としての「私」でしかないように思われる。相手との関係性が存在しないから。
聖職として「私」というものを証明するのはとても難しいと思う。
しかし「直喩」を用いて「私」を証明しようとすればするほど反感を買ってしまうのでは無いかと「直喩」「隠喩」のwikiを鵜呑みにしながら考えた戯言です。
聖職の表現する文章や口話から「直喩」が見られたら、少し注意して接した方が良いかも知れない。
昔「宮田君は、○○のようだと言いたいと思うんです」と私を目の前にして、勝手に「直喩」と「要約」をされて怒ったことがあった。