苦しみや悲しみを普遍化することの傲慢さと差別意識

キリスト教の教会で、たまに出くわす普遍化の罠。

1980年代末から1990年代のはじめの頃、日本に出稼ぎに来ていたフィリピン人女性を支援する働きに対して、「出稼ぎに来ているのはフィリピン人だけではない」という批判を受けることがあった。

「なぜフィリピン人女性だけを支援するのか」と。

いまそこに、困難な状況にある人と出会ってしまったから、そこに手を伸ばしているだけのことが、なかなか理解できなかったのだと思う。

「善きサマリア人のたとえ」をただ行っているだけの話し。

2020年6月21日のアメリカ・ワシントンナショナルカテドラルの説教。

数日前に、黒人が殺される事件が発生し、そのことに呼応して「Black Lives Matter(黒人の命は大切だ)」という運動が大きくなっていたとき。

説教で、ランドルフ司祭は「自分は白人として生きてきて、差別を受けてこなかった立場」を告白されている。

その上で、白人が”特権として持っている”差別されない立場から、目を開くことの大切さを熱く語っている。

前奏の曲は、「私たちはともにいる」というテーマの曲を演奏して、開始直前の曲は、デュークエリントンの「come sunday from black brown and beige」が選ばれている。

同じ時期、ビリー・アイリッシュも声を上げている。

https://www.ellegirl.jp/celeb/a103849/c-billie-eilish-slams-all-lives-matter-20-0601/

”すべての命が大切”を批判「白人には最初から特権がある」と。

ビリーは語る。

「もしもう1度でも「すべての命が大切だ」という言葉を聞いたら頭がおかしくなる。

もうだまーーーってくれない?

誰もあなたの命が大切じゃないなんて言ってないし、あなたの生活が大変ではないとも言ってない。

誰もあなたのことは言ってないの。

お前たちがただ、自分のことを話したいと思っているだけでしょ。

あなたの話じゃない。

なんでもかんでも自分のことにするのはやめて。

あなたは困窮してないし、危険に晒されてもいない。

(子どもに話すように説明してあげるよ。そうでないとお前たちは理解できないだろうから)」。

普遍化の罠は「自分のことを話したい」という欲求とも結びついているし「相手の話しを聞きたくない」という思いともつながっている。

twitterでは、『誰かが「具合悪い」という話をしている時に「私も〜」と被せてくることが嫌われる理由、どう説明すればいい?』というタイトルで、この普遍化してしまう症状について考察されている。

この場合は、普遍化というよりももっとたちが悪い。

https://togetter.com/li/2166555

最近耳にしたのは、聖書の話しの中で出てくる「ファリサイ派」の人たちのことを、「彼らもまた罪人であり、憐れみを受ける対象である」という説教。

聖書に出てくる「罪人」とは、社会制度の中で作られた罪人制度と、その制度を作って守ってきた為政者たちを前提にして語られている「罪人」である。

悪いことをした人でもなければ、後ろめたい生き方をする必要もない人たちである。

ファリサイ派を罪人として取り上げてしまったら、イエスの言葉そのものの意味が失われてしまう。

1990年代を20代として教会生活を送ってきた私にとっては、竹田真主教のもとで、キリスト教の信仰を体感・体験してきたように思う。

1996年の東京教区時報に掲載された、竹田真主教のテキスト。

ここに、私のキリスト教信仰の中心となる、キリスト者として生きることの本質が記されている。

(東京教区時報 1996年9月29日号付録・日本聖公会第49 (定期)総会報告(Ⅲ)から)

十字架の記念の中で -差別克服と人権回復
東京教区主教議員 主教 ヨハネ竹田眞
今回の総会で、「中川差別発言」に関する主教会総括文が承認され、管区に人権問題担当者を置くことが決議されましたが、これは重要な決定のーつであります。
「中川差別発言」とは、日本聖公会でようやく認識されはじめた人権問題、ことに部落差卿Ⅱ散廃の運動に対する、1983年5月の総会で東京教区選出の代議員中川秀恭氏の、批判と牽制の発言です。
この発言は総括文の中で掲載されていますが、被差別部落の人々に対する明らかに差別と認められるつぎのような表現がありました。
「・・・上品にかまえて、一部落民のために、何かいたしましょうと、これは私は、非常に警戒すべきことと思うわけです」
「・・・自分の娘を部落の人だと分かっておる男のところへ嫁にやるかというと、ちゅうちょするにちがいありません」
中川氏の発言に認められるような人権問題や部落差別撤廃の動きに対する消極的な姿勢は、聖公会でもかなり広く行き渡っています。
このような差別的発言者に強い批判や非難の声があがると、必ず発言者に対する同情の声もあがります。
その理由は、差別撤回とか人権擁護の動きが、一定の政治的思想をもった社会的革新運動のようなニュアンスを与えるため、クリスチャンの本来の宣教の働きではないという認識があるように思います。
とくに被差別部落に関しては、日本人の意識の奥深くまで浸透した、日本人の”原罪”ともいうべきものです。
このような発言が反省もなしに語られ、また抵抗感もなく聞き流してしまうことがよくあります。
人権を損なわれた人々の人権回復の運動や差別撤廃の運動の起こりは、決して人道主義や一定の政治・社会恕、想からではなく、キリスト教の中から起こったものであることを強調したいと思います。
また聖書の神を信仰し、神に誠実であろうとするクリスチャンならぱ、どのような人間に対する差別も罪悪として排除し、また自分たちの中にそのような言動があるならば懺悔すべきことなのです。
しかし、長い間キリスト教を始め多くの宗教は差別対して罪悪感を感じてきませんでした。
それは多くの宗教が、自分と信条を同じくする者とそうでない者、あるいは人間社会に人種、民族、宗教、習慣、思想の違いによって、聖なるものと汚れたもの、あるいは人間を「貴」に属するものと賤」に属するものに分ける傾向を持っているためです。
そのために宗教は差別を助長し、それを悪であるというより正しいことと思いこむ傾向がありました。
祈祷書の「天皇のための祈り」の削除の議論の中で、中川差別発言が、日本の天皇制に基づいた宗教的信条の中の、人間を「貴」と「賤」に分ける傾向であることを提案者は認識したのです。
旧約聖書の律法主義や神殿中心の宗教にもその傾向が認められます。
イエスがこれを批判し、対決していたことは福音書で明らかです。
本来旧約聖書の信仰した神はそのような差別によって形成された国家や社会の秩序を変革しようとする神でした。
出エジプト記でモーセが出会った神はこのような神でした。
当時のエジプトでは、王は人民を絶対的に支配し、奴隷が酷使されるような状態は神が定めた正しい秩序と信じられ、宗教によって差別が制度化された国家でした。
エジプトを始め、古代の強大なオリエントの帝国の宗教は、国や社会が絶対権力を持つ王とその貴族や高位聖職者たちとそのもとで圧政に苦しむ多数の被支配の階級が存在する秩序は神が制定したものという思想によって支えられていました。
さらにその多数の被支配者の下で人間というより家畜のように扱われる多数の奴隷が苦しんでいる秩序をも神が制定したものとされていました。
しかしモーセの出会った神は、「わたしはエジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえわたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し…」と告げる神です。
神は支配者や一般の市民の下に抑圧されて苦しむ被差別者がいる状態を秩序として信じ、また宗教によって支えられている社会を黙認しません。
神はモーセをそのような国家の変革のために派遣されます。
エジプトの奴隷となっている無力なイスラエルの民の指導者モーセは、絶対の権力者である王ファラオと対決します。
イエスの時代の旧約の宗教は聖なるものと汚れたものに分ける律法と神殿中心の宗教になっていました。
イエスは律法主義と神殿の在り方、またその代表であるファリサイ派とサドカイ派と対決します。
「わたしが来たのは罪人を招くため…」とイエスが宣言した、その「罪人」とは、当時の律法で罪人と定められた、徴税人や異邦人、またサマリアの人たちなどです。
イエスが関心を持ち、憐れに思った「群衆」はこのような「罪人」の集団でした。
イエスの救いの働きの中心は、この律法によって汚れていると定められた「罪人」の解放です。
この差別社会の秩序の変革は、単なる人間の努力では困難な人間の罪の根源にかかわらなけれぱなりません。
それは、イエスの十字架の受難と復活によらなければ遂行されません。
現代世界では教会外でも人権意識が強まり、さまざまな道徳的、政治的立場で差別と闘っている人々がいます。
しかし、よほど意志が強く、あるいは政治力やカリスマを持っていなければ、この闘いに耐えぬくことは困難です。
この闘いには多くの人々が挫折しています。
私たちの差別克服の働き、神のみ心を行うという確信と、神の助けに支えられてのみこの働きは可能であるという謙遜さが必要です。
すでに申し上げたように、宗教は差別を生み出し、また社会の差別構造を保持し、助長する役割を果たしました。
しかし、同時に人間の差別の克服にも、宗教、とくにキリスト教は、重要な役割を負っていると信じます。
キリスト者の差別克服や被差別者の人権回復の運動は、キリストヘの信心と献身の行為として、キリスト記念のサクラメントの脈絡のなかで行うのでなければ、意味を失うことになります。
端的にいえばこれは人道精神や博愛の精神から出る社会運動でもまた政治的な社会革新運動としてでもなく、キリストの十字架の記念の中で自らを捧げる行為として実践するのでなければ、意味を失うことになります。
近年キリスト教でも、他の宗教でも自分たちの持つ差別性を自覚してその克服に取り組む動きが出てきました。
1981年には「『同和問題』に取り組む宗教教団連帯会議」(同宗連)が結成され、その規約の前文には「われわれ宗教者・およびわれわれ宗教教団は、…深き反省の上に立ち、教えの根源にたちかえり、…」と宣言されています。
キリスト教も出エジプト記の神の教え、またイエスの教えの根源に立ち返る必要があります。
私たち信仰者は自分の属する宗教を善と信じ、また自分たち自信も善意に基づいていると思っています。
しかし主イエスの教えは善であっても、宗教が組織化され、制度化され、この世で教団を維持するとき、教会を取り巻く社会のしきたりとの妥協や迎合が起こり、主イエスの教えの根源から離れて、教えに反することが知らず知らずのうちに起こることがしばしばあります。
私たちが繰返し罪を告白し、懺悔とと赦罪を祈るのはこのためです。
中川差別発言を契機に私たちは、教会の差別的傾向を吟味し、差別されているものとの出会を大切にし、差別の実態を把握し、またそれを克服するために研修を積まなければなりません。
主教会の総括には、中川氏の差別発言の問題指摘だけではなく、それ以上に主教会の差別問題の取組み方の自己反省と今後の取組みについての決意が宣言され、差別撤回のために各教会、教区また管区のレベルでさまざまな研修プログラムに参加するように呼かけています。
今回の総会では管区に人権担当者を置くことが決議されました。
各教区主教が各教区に人権担当を置くことを表明しています。
東京教区としても、すでに宣教方針にもその決意に沿った方向が打ち出されていますが、それぞれの教会・礼拝堂、また教区のそれぞれのプロジェクトが人権の問題を視野にいれて、活動を進めていただきたいと願っております。
現代のわたしたちの周囲で抑圧された人々を、福音書では「もっとも小さな人々」、「へり下った人々」などと呼ばれていますが、「私がつかわされたのはこのような人々」と語られた主イエスのみ言葉を思い起こし、主イエスをこの世に派遣された神のみ業(ミッション)とみ心に仕える礼拝と奉仕に務められるように期待いたします。

(東京教区時報 1996年9月29日号付録・日本聖公会第49 (定期)総会報告(Ⅲ)から)

「苦しんでいるのはあなただけではない」

「他にも苦しんでいる人は沢山いるんだ」

「私だって苦しいんだ」

このような発言は、差別意識が発露してしまった瞬間なのだと思う。

うっかり普遍化することがないよう、発言とその奥にある思いに、注意を傾けて行きたい。