立場を明らかにする

日本聖公会神戸教区の教役者修養会への出席を、抗議の意思と、私の立場を明確にするために、欠席を表明しました。
主催される担当者や、お招きする牧師さん、また関係する方々に対する糾弾や排除を目的とするものではなく、
私自身の立場を明らかにするために行っている欠席の表明です。

すでに、疑義の申し立てと抗議を行い、関係者との丁寧な対話の後に、私自身の欠席を公の場で表明することを妨げないというご配慮をいただいた上で、この文章を出しています。
関係されている方々に感謝するとともに、聖公会は多様性の中の一致を大切にしていますので、これからも変わらない関係の中で、ともに同労者として歩んで行きます。

2023年6月に日本聖公会神戸教区の教役者修養会が行われます。
講師をお招きしてお話しを聞き、今後の教会形成に役立てようというものです。

講師の牧師さんは、ナッシュビル宣言の賛同者にお名前を連ねていて、ご自身の教会は2020年に米国南部バプテスト連盟に加盟されています。
牧師さんや教会については、私は全く知りません。WEB上での情報です。

ナッシュビル宣言の賛同者で、2020年という時期に米国南部バプテスト連盟に加盟され、教会のホームページでは「聖書を十全逐語霊感された神の言葉と信じます。原則として聖書を文字通りに解釈をします。」と掲げていらっしゃる様子から、「その方をお招きして教会形成に役立つお話しを聞く」という教区の判断に疑義を申し立てました。

ナシュビル宣言に関する問題点

「NBUSを憂慮するキリスト者連絡会」
https://against-nbus.org/

キリスト新聞社「NBUSに名指しされた藤本満氏がコメント 「宣言」をそのまま持ち込むことを危惧 2022年8月22日」
http://www.kirishin.com/2022/08/22/55852/

日本バプテスト連盟「日本バプテスト連盟 性差別問題特別委員会 2023年3月11日」
私たちは、NBUS および「ナッシュビル宣言」に反対し、性の多様性を喜びます。
https://bapren.jp/wp-content/uploads/2023/03/8a5d2aae18289c648cc9baafb0896e21.pdf

ナシュビル宣言に関しては、有志によって「NBUSを憂慮するキリスト者連絡会」が組織され、私は憂慮する会に賛同者として署名をしました。
日本聖公会は今のところ声明文ほか明文化されたものは出していません。
憂慮する会には、日本聖公会の関係者がお名前を連ねています。

米国南部バプテスト連盟は、2000年に制定された信仰告白
https://bfm.sbc.net/bfm2000/
において、第6項女性司祭の反対を表明しており、
2002年、日本バプテスト連盟が声明を出しています。
https://bapren.jp/uploads/photos/136.pdf
また、第18項では
「妻は夫に服従しなければならない」ということを表明しています。
https://www.bapren.jp/uploads/photos/133.pdf
これらのことについて日本バプテスト連盟は2002年5月22日付けで書簡を送っています。

神戸教区では私の疑義申し立てに丁寧な会議がもたれたようで、教区内の全聖職宛に丁寧な報告が配布されました。
最終的には、
講師の変更は行わない、当初よりナッシュビル宣言に関することや、LGBTQ+に関することについてはその講演内容とは関係していない。
ということでした。
第1セッションは入信から開拓伝道、第2セッションは少子高齢化と教会、第3セッションは教会での青少年の居場所などがテーマとなっています。
この決定については「わかりました」という気持ちです。

講演を聞き、集合写真を撮り、その後なんらかの形で修養会の報告が出てくることと思います。報告では「良かった」という方向の報告が集合写真と共に掲載されることが予想されます。

その場に私が立っていることに、大きな不安と私自身への疑問がわき上がってきます。
当初は、講演会だけ退席すれば良いかと考えていました。
しかし、最終的には、参加をし、その報告の中に私が連なっていることに問題があるのではないかと思い始めました。

ナッシュビル宣言は、命を脅かす人権問題を含む宣言であると私は理解しています。
性的マイノリティに限らず、性的あり方を否定するものであり、いま生を受けているその人の生そのものを否定する宣言そのものと受け止めています。
また、米国南部バプテスト連盟の信仰告白は、私自身にとって脅威を感じ、恐怖と不安を抱かせる信仰告白の内容です。
家父長制と男尊女卑が明確にされていると感じますし、権威主義的な空気感に嫌悪感を催します。
個人的には、男性性の加害性を肯定する様にも感じ、ホモソーシャルに脅威を感じている私にとっては、心理的安全も含めて、「加害者と対面するのは勘弁してください」という心理状態に近い思いを抱いています。

その上で、この講師とともにその場にいることは、LGBTQ+の方々にとって、私のことを心理的安全が約束できない人として受け止められる可能性が排除できません。
私自身が男性の聖職であるために、その場に居るという状況だけでは「賛意」を表しているように受け止められてしまう可能性があります。
だからといって、反意を示すためにレインボーグッズのTシャツを着るとか、たすきを掛けるとか、わざわざその場で抗議の意思表明をする必要性は、修養会の目的とはあっていないと思っています。

正直なところ、ナシュビル宣言は私には直接的に関係ない事柄だと思っていたフシもあります。
なぜならば、日本聖公会は2022年の「女性に対する暴力の根絶を求めて祈る」礼拝における分かち合いの時間で
「はるかな希望を共に見つめて~〈ナッシュビル宣言〉と〈NBUS〉の課題~」お話:臼井一美さん(日本バプテスト連盟市川八幡教会教会員・日本YWCA幹事)として、LGBTQ+側に立ち、分かち合いをしていたからです。
https://youtu.be/0s__NXEoCvg

ずいぶん前には、神戸教区の教区会でも性的マイノリティーについての講演会が開催されています。

まさか、この様なかたちで、私自身に直接その判断を求められる場面が来るとは思ってもみませんでした。
「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき」というマルティン・ニーメラーの言葉に由来する詩が私に突き刺さります。
ニーメラー本人が書き遺したものはないようで、ニーメラーが語った言葉からいくつかの詩として存在しているようです。

ニーメラー財団のテキストから

ナチスが共産主義者を連れさったとき、私は声をあげなかった。私は共産主義者ではなかったから。
彼らが社会民主主義者を牢獄に入れたとき、私は声をあげなかった。社会民主主義者ではなかったから。
彼らが労働組合員らを連れさったとき、私は声をあげなかった。労働組合員ではなかったから。
彼らが私を連れさったとき、私のために声をあげる者は誰一人残っていなかった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%BC%E3%82%89%E3%81%8C%E6%9C%80%E5%88%9D%E5%85%B1%E7%94%A3%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E8%80%85%E3%82%92%E6%94%BB%E6%92%83%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%A8%E3%81%8D

いま、私は、私自身が声をあげる時だと思っています。
すでに私は、一度か二度、声をあげることをためらっていたかもしれません。
人生を振り返れば多くの場面で声をあげていなかったかもしれません。

少し前ですが、ある会合において、女性の聖職が抗議の声をあげた場面を目の当たりにしました。
女性の尊厳を傷つけるような発言がその会合でありました。
私の記憶も怪しいですが、私自身が、女性の聖職による抗議の声を直接体験することがなかったように思います。
私も心のざらつきを感じましたが、私は抗議の声をあげることなく、自分の心のざわつきで「あぁいやだなぁ」という感情を飲み込みました。
その方は、自分の言葉ではっきりと言葉にしました。とても大きな勇気をいただきました。

心理的安全が脅かされる。私だけではなく、私に関わる方々にとっても心理的安全性が約束できなくなってしまう。
心理的安全だけではなく、肉体的安全の担保も不安定になってくる。

暴力を受けて育ってきた人間にとっては、人間の存在自体が暴力的で、隙があれば攻撃してくる存在として脅威に感じています。
負の連鎖を断ち切るための努力は、どれだけ努力してもしきれないくらい、膨大な積み重ねが必要で、それでも人間は攻撃性を抑えきれない存在でもあります。

「とりあえず聞いてみることが大切」という言葉もあるでしょう。
しかし、それは、「カルト宗教やナチスや大日本帝国のやり方にも、役に立つことがあるから学びましょう」というのと同じだと感じます。

私の関係するとある会合で「疑問のある方」を講師に読んで講演会が開かれたことがありました。私は直接責任はないし、私が呼んだわけではないし、決定のプロセスに直接関与していないので、声をあげませんでした。
私に対して疑義を唱える声が届いていたのですが、責任がないことを理由に、適当にごまかしていたように思います。
振り返ってみても、私には影響はありませんでしたが、その講演内容には疑問が多くあります。
そして、どう考えてもちゃんと声をあげる必要があったのではないかと、後悔と反省をしています。

今回の件は、歴史的・時間的連続の中で起きた出来事ではないことも大切な視点だと感じています。
世界の全聖公会(アングリカン・コミュニオン)は、分裂の危機を常に抱えていますし、実際に分裂している状況もあります。
それでも、アングリカン・コミュニオンという歴史的・時間的連続の中で、多様性の中の一致を保てないかと、祈り、分かち合い、なんとか踏ん張りつつ、さまざまな応答に尽力しています。
アングリカン・コミュニオンとして一致していたところからの分裂という、歴史的・時間的連続の中の出来事です。
このことを前提にして、アングリカン・コミュニオンは、多様な声を聞き、一致を求めて日々祈り努力しているという背景から、日本聖公会の立場とは相容れない方であっても、その方の話を聞くということが大切だという考え方には、今回の「教役者修養会という学びの場」において、多少なりとも無理があるのではないかと感じています。
内部的な課題に対しての問いではなく、外部からの課題を突然投げ込まれたような思いを受けています。

一つ一つの事柄は、それぞれ個人の問題として考えていかなくてはならない事柄かと思いますが、今の私の意見表明は、「このような判断をした組織体」に対しての抗議だと考えています。

自己開示をする必要は、本来不要なはずで、この様なかたちで自己開示をするのは、それもまたマイノリティーにとっては「自己開示をしないと認められないのか」という問題があります。
意見を表明するに当たり、それでも自己開示をしておいたほうが、理解に役に立つと考えました。

・女性聖職(主教・司祭・執事)を認める立場です。
 正確に表現すれば、認める認めないではなく、私にとって当たり前の存在です。
 日本聖公会について言えば、渋川良子司祭の司祭按手式に会衆として参列していました。
・LGBTQ+をそのまま受け入れます。
 何も疑問を抱きません。
 友人にも求道者にもカミングアウトしている方がいます。
 医学的に男女の区別はグラデーションであり明確に分かれていないという考え方を受容しています。
・女が男に従うという考え方は全く理解できません。
 関連する女性らしさや男性らしさというものに嫌悪感を持っています。
・ジェンダー平等を実現したいと思っています。
 役割として”女性が”お茶を出すことに嫌悪感を持っています。
 その人をその人として見ています。
・フェミニストだと思います。
・憲法9条を守りたい。護憲派です。
・権威主義や権力に対して批判的です。
・基本アナーキーです。
他にもあるかもしれませんが、こんな感じです。
TwitterやFacebookやblogから、私を知ることが出来るかもしれません。

まとまりなく、書き連ねてきましたが、心のざらつきと、その思いをテキスト化して表明することの難しさを感じています。
それでも、声をあげ、意見を明らかにしておくことが大切だと思っています。

2023年5月10日