贖罪論についての備忘録

従来の「内面的罪のゆるし」や「過度な罪意識による悔い改め」などによるマインドコントロールにも似た信仰形態についての備忘録

神の宣教に参与する私たちの信仰との乖離について。

「解放の神学」以降に教会生活を送り、この後のフェミニスト神学などの影響を受けて変革をしてきた教会で、信仰が育まれてきた者にとって、旧来の贖罪論の気持ち悪さや、脅迫的思考への違和感が丁寧に記されている様子。

「書き遺す 神学へのメモ ―贖罪・文化・歴史・老いる―【増補版】」(渡辺英俊 (著)、大倉一郎(編集)、2021年、ラキネット出版)

かつての贖罪論と現在の贖罪論と表現して良いかわからないが、渡辺英俊牧師が、この乖離について言語化されている様子。
下記の書評からの引用

「贖罪」においては、「解放の神学の視点」から、旧来の、そして、現在もキリスト教会では支配的な贖罪論が批判されている。

 「このように信じた人々は、イエスの生と死の姿の中に人間の本来性、すなわち神に似せて造られた人間の本来の在りようが実現しているのを見て取る。また逆に、イエスの在りように実現している人間の本来性に神の姿が映し出されているのを見て、自分たちの中に共にいる神をそこに見て取る。こうしてイエスは、一方で人間としての神の似姿を体現し、もう一方では、それによって人間と共にいる神の在りようを証示する存在となる」(p.24)。

 これは、古来の神学用語では「キリストはまことの人であり、まことの神である」と言い表された事態を、著者の観点から言い換えているのであろう。いにしえの人はなぜイエスをそのように言い表したかを、説得的に説明していると思った。著者の「キリスト論」の一端とも言えるだろう。


書評


秋吉隆雄氏という牧師も同じように書評を書かれている。

http://akiyoshi-madobe.jp/image/2021.06.04.pdf

2023年4月21日に渡辺英俊氏の本を購入した。

「御子は私たち罪人のために十字架にかかり、犠牲として捧げられた」という贖罪論を、渡辺英俊氏は次のように奇妙でグロテスクなストーリーだと表現する。
私も渡辺氏の考え方に共感する。

2023年の今、従来のと言って良いのか、それとも奇妙でグロテスクな作られた贖罪論といって良いのか、この考え方が多くの日本人非キリスト者に受け入れられるはずもなく、一種のマインドコントロールや脅迫と変わらない様相を見せていると考えている。

キリスト教のその”信仰”の始まりは、「復活のイエスを体験・経験した弟子たち(同労の女性たちを含む)」から始まるからである。

神は審判において、罪人である人間に滅びの判決を言い渡さなければならないが、それを避けるために自分の分身である「御子」を世に送り、人間の身代わりに人間への刑罰を負わせた、それがイエスの十字架だ、ということになる。
ここでの神は、一方では自分の「義」を通すために人間に滅びの刑罰を科さざるを得ず、もう一方では人間への「愛」を通すために人間の罪を赦さざるを得ない。
この二律背反を抱え込んだ自己矛盾を解決するために、「御子」を身代わりの犠牲にして罰を負わせたのだ、ということである。
そこでは、神の「愛」と「義」は完全に相矛盾するものとなり、この矛盾を背負い込んで困り果てた神は、「御子」を犠牲にしてこの矛盾を解決した、という奇妙かつグロテスクなストーリーが展開されているのである。

日本聖書協会より「新約学から贖罪論を考える」