2015年1月17日 神戸聖ヨハネ教会 阪神淡路大震災・20年記念聖餐式 奨励 宮田裕三 

神戸の震災から20年、95年当時、50日間も芦屋マルコ教会でボランティアとして働いていたのですが、人前で話す機会がありませんでした。

それには20年という年月が必要だったようです。私の場合、祈って待つということが往々にしてありまして、妻(美樹さん)は10年間祈って待っておりました。ずいぶん長い時間を待った気がするのですが、結婚生活が14年なので、すでに待っていたときよりも長く一緒にいることが出来ています。

さて、95年の震災ボランティアですが、その経験を無駄にしないようにと、色々な勉強を重ねてきました。ボランティアとは何をする存在なのか、教会は何が出来るのか、自分が被災したときには家族共々生き延びられるのかなど。

そして、神戸の被災者はいったいどの様なことを考え、思い生きているのか。悲しみや苦しみという話しはもちろんですが、ボランティアという働きで左翼と右翼が全く同じ思想になっていたこととか、震災によって不倫がバレたカップルの話とか悲喜こもごもの話しなども収集していました。

そして、いつか東京が被災することを想定して生活してきました。

東京では関東大震災の教訓を活かして、幼稚園の時から防災訓練をしているので、いつか大地震は来るだろうという感覚を持ち合わせていました。

そして、神戸の震災から16年の年月を経て東北を中心に大震災が発生したのです。私にとっては10年間祈って結婚、16年間備えて東日本大震災、そして20年経って、皆様の前でお話しする機会を与えられたという感じです。祈って待つということの大切さを実感しております。東日本大震災の話しはまだどこでも話していないので、これも祈って待ちつつ次の震災のために日々準備を重ねています。

神戸の震災では、つらいことが沢山ありました。と言いますのも、教会によって、牧師によって、信徒によって傷つく日々を送っておりました。これは震災に限ったことではないのですが、教会というのは本当に怖いところだなぁというのを体験し、そして今も教会って怖いところだなぁという感覚を持って信仰生活を送っています。

それは教会が怖い場所というわけではなく、教会に集う人々一人一人が怖いのです。しかしそれは、社会の中の一つの縮図が教会にあるだけなので、結局は人が怖いわけで、信用すればするほど裏切られていくわけです。

当初、東京教区はボランティアを派遣する予定はないという事だったので、ボランティアを募集していた京都教区に申し込んで参加しました。ところがその後東京教区も募集を始めたので、私の扱いがややこしい事になってしまうのです。

京都教区は往復の交通費を負担して下さったのですが、あとから東京教区も交通費負担を申し出て下さったのです。すでに戴いているから結構ですと断っても、教区の仕組みだから受け取れと言ってきかないので、結局受け取ることになりました。

すると、当時所属していた三光教会も、費用負担をすることが決まり、こちらも負担するときかないのです。結局、それらの費用を活用させて戴き、50日の間に東京ー神戸を3往復することが出来たのですが、なにか腑に落ちない組織的問題を感じました。

まして信徒さんからの献金を使うのですから、こういう無駄な話はやめて欲しいものです。

芦屋マルコ教会滞在中もおかしな話しが沢山ありました。当初立教女学院の先生と生徒さんが一緒に働いておられて、朝食だけご一緒していたのです。数日経って、話したこともお目に掛かったこともない大阪教区の司祭から電話が掛かってきて、「 君が宮田か、立教女学院の生徒と食事をしないように、それから話をしないように」 という電話が掛かってきたのです。

立教女学院の引率の先生とは東京教区同士で知っていて、学生さんたちは朝早くボランティア先に出かけるので、朝食の準備をして送り出していただけなのですが、その司祭にはどんな話しが伝わっていたのでしょうか。引率の先生も笑っておられて、「気にせず今まで通りで良いですよ」と。しばらくすると同じ司祭から「あなたがいると教会に迷惑が掛かるから、日曜日は芦屋の教会に近づかないように、礼拝にも出ないように」という電話が掛かってきました。こうなると、笑うしかないわけです。

笑っているうちは良いのですが、お目に掛かったこともない司祭から言われるということは、なにか話しが伝わっているわけです。ところが、立教女学院の先生は関係無いですし、じゃぁ芦屋の信徒さんなのかと思うのですが、芦屋の信徒さんとは懇意にさせていただいて、何名かのお宅の荷物出しや荷物整理などでお手伝いしているわけです。また当時大工だったので、大工さんなら直せるでしょうということで、震災で壊れた説教台をなおしたりしていたのです。

となるといったいだれがなんのために動いているのか良くわからないのです。

そのころ東京でもおかしな話しが伝わっていて、「断水している芦屋で、宮田君はミネラルウォーターで洗濯をしている」ということが言われていました。華やかに活躍しているならまだしも、地味な活動しかしていなくてもいろいろなうわさを立てられてしまうわけです。牧師不信、信徒不信にだんだんとなっていくわけです。

そして、大阪教区の司祭数名が入れ替わり立ち替わり登場しては現場を仕切ろうとして空振りに終わって帰るという場面に遭遇しました。現場を知らない司祭が登場しても周りはついて行けないわけで、司祭同士の覇権争いのようにも見えました。とても残念な光景です。他にも沢山のおかしな話がありました。そして3月末にボランティアセンターは礼拝を持って閉所しました。

東京に帰ったら、神戸に関心を寄せてくれるだろう、神戸の話しを聞いてくれるだろうと思って戻りました。瓦礫の街神戸から新幹線で数時間、東京はごくごく日常のさくら満開の4月でした。

しかし期待は外れるのです。そのころの話題は地下鉄サリン事件でした。神戸のことはすでに過去の物だったのです。テレビをつけてもラジオをつけても新聞を読んでも、東京では神戸の話しは皆無でした。それは教会も同じでした。だれも「今」の神戸に関心が無いのです。関心が無いというのは怖いものでねぎらってくれる人すらいなかったのです。

先ほど話した噂話も影響していたのかも知れませんが、私が神戸でボランティアをしていたと言うことに興味が無かったのです。結局、東京教区は私の経験はどこにも活かすことが出来なかったのです。

東京教区としても16年間ほとんど震災対策を採っていなかったことからも、私以外のリソースを含めて、経験として活かせていなかったのです。そんながっかりした状態だったのですが、

東京に戻った直後、神戸ヨハネ教会の中村豊司祭から「ヨハネに来ないか、教会の修理を手伝ってくれないか」という電話がありました。

東京ですっかり浦島太郎になり、神戸病というほど神戸について消化不良だったので、涙が出るほど嬉しかった記憶があります。すっかり落胆していて「もう聖公会をやめる、教会なんてどこにも神はいない」なんて思っていたのですが、 神戸ヨハネに来てからは楽しい日々を送らせていただき、 その苦しさから解放されることができました。

その切っ掛けは、中村司祭の書棚に置いてあったアントニーデメロの一冊の本です。そこには「教会の前で教会に入れてもらえない信徒が、神に懇願している話しがあるのです。神様、私は教会に入れてもらえないのです、どうか教会に入れてもらえるようにしてくださいと。すると神様は、心配はいらない、私だって教会に入れてもらえないのだから」と。

人は常に悪魔の誘惑に惑わされてしまうのです、今まであった話しも、神様のワザがさせているのではなくて、人が御心に従わずに勝手に振る舞っているということを教えてくれたのです。

それまでも決して信仰心が厚いわけでもなく、妻(美樹さん)が教会にいるから足繁く通っていたのです。その教会から傷つけられ、うちひしがれていたときに、神戸ヨハネ教会で救われたのです。私にとっては初めて信仰について感じることが出来た体験です。

その後は、神戸教区の皆様にお世話になりながら、本当に信仰生活を送らせていただきました。いまもなお教会には神様はいるのだろうかと自問自答しながら頑張っております。

そして東日本大震災が16年後に発災するのです。今回は原発事故があったので東京から岡山に一時的に移動するかと話し合っていました。震災直後は準備万端だったので生活には困らなかったので、経験を活かすことが出来たのですが、まさか支援する側になるとは思っていなかったのです。逃げることが優先でしたから。そして中村主教から突然の電話です。

中村主教が主教按手式の事を書かれた教区報に「行きたくないところにつれて行かれるペテロ」さんの話しが書かれていました。行きたくないところにつれて行かれて主のみ業を行うようにと。主教按手というのはそういう感じだと書かれていたのですが、なるほど、こういう感じなのかと、実感しました。

「行きたくないところ」というと語弊がありますが、やはり正直な気持ちです。それとともに「主のみ業を行うように」と16年越しに呼び出されているわけです。そして、あの忌まわしい記憶がよみがえってくるわけです。司祭・信徒によるねたみや噂話。

近しい関係者に東京教区の動きについてきいてみると、95年と同じように東京教区はボランティア募集をする予定はありませんと、まるでデジャブのような状態でした。今回は賢くなっていましたよ。話の分かる司祭には何かあったときの担保として、中村主教から要請があって働いていることを知らせておいて、自分の教会にも教区にも特に話さず、静かに黙って働いていました。おかげで噂話も立つことなく、嫉みも買わず、それでいてずっと備え考えていた事柄を比較的段取りよく行動することが出来たわけですから、人は成長するもんです。

これはだれでも考えていた事ですが、支援活動するときには「行った先の教会の信徒と一緒に活動をしない」という、一見矛盾するような認識を共有出来たのが大きかったと思います。

教会として活動をするとどうしても働く人と働けない人が出てきてしまいます。そしてねたみや恨み、うわさ話が出てきて、最後はみんなして疲弊してしまうのです。

マリアとマルタの話です。

だからといって何もしなくても良いのかという問題があるのですが、東京マリア教会では、東京で震災があったら全国からボランティアが来てくれるかも知れないから、その備えをしましょうと話しています。

現実には宿泊できる設備が整ってなかったり、土地が小さすぎて何も出来ないかも知れませんが、それでも「受け入れるんだ」という姿勢を教会内で共有し続けることが大切だと思っています。また、本来は直接的に地域と関わる必要があるのですが、高齢化と低予算と人材不足で、教会を開放することすら出来ない状況があります。それでも、小さなガレージバザーを開いたりしていて、地域に認知される活動は続けていく必要はあると思います。

小名浜テモテ教会で行ってきたボランティアですが、何も出来ない私たちは、何も出来ないのだから、ただそばに寄りそうことを大切にしてきました。無理して色々なイベントしたり、物をあげたりしなくても、そばに寄り添う事が出来ることがとても大切なのじゃ無いかと思っています。

それは、私たちを通して神様のみ業を伝える本質なのでは無いかと思うのです。物やイベントを通して神様の業を伝えるのは、誤魔化しが効くだけに、とても楽なのですが、一過性の出来事で終わってしまうのです。

私たちの教会とよく表現されますが、その私たちの持ち物である教会を手放したとき、はじめて神様が教会に入ることが出来て、地域の中の教会として行かされるのでは無いのでしょうか。教会を手放すのはとても怖いのです。教会はだれが来ても良いです、だれが教会を取り仕切っても良いです、それは、人事でどの牧師が来ても良いのです。現実にはとても難しく、中々出来ないものです。出来ないと自覚しているからこそ、その時が来るのを日々祈っております。

神戸の震災から20年、今もなお震災の苦しみが癒えない人がここそこにいることを覚えて、これからも来る災害に真摯に向かい合うことができる存在で居られる教会でありますように日々祈っております。

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