説教について思うこと「聖書を立体化する」 2022.12.9

「説教について思うこと」を2022年12月9日の思いを残しておこうと思った。

徳島聖テモテ教会に赴任してから、ほぼ毎週日曜日に説教をしてきた。

2019年4月に赴任して、聖職候補生として勤務をし、説教(日本聖公会では聖職候補生は教話とか感話とか表現する)をしてきた。

2020年のはじめから新型コロナウイルスが流行りはじめ、春以降、オンラインでの礼拝配信を始めることになった。

当然のことながら説教もライブ配信され、アーカイブされることになった。今でもYoutubeで見ることが出来る。

緊急事態宣言が発令して、教会に集まっての礼拝が休止され、しばらくオンラインのみでの礼拝が続いた。

その後、緊急事態宣言が解除され、感染対策に細心の注意を払いながら礼拝が再開された。

再開された最初の礼拝が始まる前に、会衆席から突然、怒りのような声で「宮田さん、説教でちゃんと福音を語ってください。」と響いた。

礼拝に集えなくなって、やっとの事で会える喜びを共有しようと思っていたところに、怒りの声が突然礼拝堂に響いて、思わず反論してしまった。

「福音を語るのは、聖書であってイエス・キリストです。私の説教が気に入らなければ説教をしないことも出来ますし、聖書を読むだけで終わりにしましょうか」と。

大人げないなぁと思いながらも、やっと礼拝にみんなが集まって喜びを分かち合うことが出来ると思っていた矢先に、冷や水を浴びせられたようなことになり、とても残念な思いを抱きながら、礼拝が始まった。

緊急事態宣言になり、各家庭宛に週報や教会のお知らせをお配りするようになった。そのなかに妻が編集発行をしている「もテモテ通信」というのがある。

もテモテ通信の最終面に「宮田せんせいから」というコラムがあり、そこに寄稿をしている。

新型コロナウイルスの猛威と脅威、そして今後のこと、教会として何をするべきか的なことをちょこちょこと書いていた。

どうもその内容に不満を持っていたようである。

しかし、根拠の無い安寧だけを語るような、無責任な言葉を語るような私ではない。

そもそも、私自身はアナーキーなリアリストだと思っているし、思われてもいる私からしたら、お気楽脳天気な「ただ祈れば神は私の思いを聞いてくれる」「神を信じていれば病気にならない・感染しない」的な、およそキリスト教の信仰とは相容れないような言葉を語る術を持ち合わせていない。

だからこそ「私が福音を語る」という表現も持ち合わせていない。

「語る」ことも「伝える」ことも「話す」ことも同じじゃないかと言われれば同じかもしれない。

しかし、私が説教で心がけているのは「福音と私の思いをちゃんと切り分けること」だと考えている。

キリスト教会は、探せばいくらでもあり、自分に合った教会を選択する自由もあるし、出入りも自由であるので、我慢して貴重な時間を過ごす必要は無いと思っている。

それ以来「私が福音を語る」という危険性について考えるようになった。

もし「私が福音を語る」ようになれば、私自身がある意味のカリスマになりかねない。「私についてくる人」「私を信頼する人」を生みだしかねない。

私が語る説教は、どこまでいっても、聖書を語ることであり、聖書に書かれている、イエス・キリストのグッドニュースを、いまこの時代のこの瞬間に、お届けすることでしかないと考えている。

私の説教を「力強さがない」「語っていない」と評する方もいるが、それはその通りだと思う。

私がしていることは、「聖書を立体化して見える化」していることに過ぎないから。

説教を聞いた人が、その立体化された、見える化された聖書の言葉とその思いを聞いて、それぞれが自らの福音を聞き分け、見つけ出し、そこからイエス・キリストを信じる者として立ち上がり歩み始めることが出来れば、そこには復活を信じるキリスト者の姿が、この世界で見える化されるのだと考えている。

キリスト者の信仰の姿が、この世界で見える化されれば、その信仰の姿に、また一人また一人と、ともに歩もうとする人が起こされてくるのだと思うし、そこに信仰のアクティブ化、現実化が起こるのだと思う。

私の出来ること、もしくは私の役割は、信仰の歩みを支えることであり、つねにイエス・キリストに立ち帰ることが出来るように、イエス・キリストの言葉と行いを、見える化して立体化することだと思っている。

かつてのキリスト教説教者は、大きな主張や、力強さを必要としていたのかもしれない。いまもそのように考え、そのような説教をよしとしているのかもしれない。

しかし、それはイエス・キリストを救い主として理解できなかったイスラエルの民と同じ思想に通じてしまうのではないかと思っている。

力強く、かつてのユダヤ王ダビデのような人物を期待しているイスラエルの民。

イエスはそれに否を示し、癒やしを行い、貧しい人に福音を伝える。

2022年12月の今、癒やしを行い、福音を伝えていたイエス・キリストの思いを、今のこの時代に、丁寧に伝えていくことを是として、福音を伝えていきたいと考えている。

私が福音を語り出したら、ヤバい人になると思っている。

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