スカウティング考 集団ドリルの弊害
以前にツイートしたこと。
特別支援学級の対応方法って、ボーイスカウトの教育方法そのものなんだけどなぁと思ってみる。現実のボーイスカウト指導者がそれを理解せずに、集団ドリル形式の活動をしているから、せっかくボーイスカウトを選んでくれたのに、学校と同じだから長続きしてもらえず、辞めて行ってしまうのです。
特別支援学級の対応方法って、ボーイスカウトの教育方法そのものなんだけどなぁと思ってみる。現実のボーイスカウト指導者がそれを理解せずに、集団ドリル形式の活動をしているから、せっかくボーイスカウトを選んでくれたのに、学校と同じだから長続きしてもらえず、辞めて行ってしまうのです。
— luke yuzo (@togoshicom) January 26, 2014
ベーデンパウエルを振り返ってみると、個人の資質に合わせて社会人としての自立をもとめていたのではないかと考える。
ドリル形式で集団を成長させるには、バッチシステムは不要で、集団としての評価をすればよい。
バッチシステムを利用して、個人の資質に合わせて成長を促し、個としての成長の集合体として、班の成長が見込め、その結果としての社会の成長を望んでいたのではないかと思う。
振り返って、日本の教育は集団ドリル形式ですべてが推移しており、集団を起点として、その基準に子どもたちを育てていく方法を採っている。
結果、その基準に満たない、違う結果を生みだすような子どもたちは、評価をされないまま、否定された状態で集団に組み込まれていく。
スカウティングの班制度は、早い時期に日本の学校教育に取り入れられ、その有用性はすでに日本の学校に於いて認められている。
学校において班制度が存在しない国においては、班制度があるスカウティングは学校の補完として機能しているところもある。
日本のスカウティングに必要とされているのは、学校とはまるで違う、一人ひとりの資質に合わせた、スカウティングと、班制度の確立だと思っている。
しかし、日本の学校制度にどっぷり浸かって、品行方正に育ってきた大人にとっては、一人ひとりの資質に合わせてファシリテーターになる事をどこでも体験していないので、未知の世界になってしまっている。
研修所や実習所でスカウトごっこをするよりは、もう少しアカデミカルな指導者養成システムが必要なのかも知れない。