「巡礼」と「寄り添う」

「巡礼」と「寄り添う」

なにが自分の中で引っかかっているのだろうか。
・「記号化」されているかされていないか。
・「多」対「多」「多」対「個」
などが思い浮かぶ。

自分自身に置き換えてみる。

津波で幼稚園バスが被災した。
わが子が乗っていて死亡した。
園舎も被災した。
園舎に祭壇がある。
多くの人が訪れる。
花を手向ける。
団体さんも来る。
花を手向ける。
宗教団体も来る。
花を手向ける。

この中に、父親である「私の存在」というのが無いのである。
わが子を失った悲しみに寄り添ってもらえる要素がない。

訪れる人たちは、何をしに来るのだろうか。
亡くなった子どもの魂の平安を願うのだろうか。
二度とこのような悲劇を繰り返さないように願うのだろうか。

残された私には、なんの希望も勇気も与えてくれない。
わが子やその友達が、自分とは関係なく記号化されていく気がする。

だからといって、来て下さる人たちに自分の気持ちを吐露して、すがるというのも違う気がする。
自分とわが子と幼稚園の関係性の中を、土足で歩かれている気分というのが一番近いかもしれない。

自分とわが子と幼稚園の関係性が精算されたとき、巡礼者を受け入れることが出来るのかもしれない。

その時は、すでに「記号化」されていて「多」対「多」の関係になり、広島や長崎の巡礼のように、他人事として自分のために巡礼出来るのだと思う。

その時が来るまでは「個」対「個」の関係性の中で、寄り添う人でありたいし、寄り添ってもらえる人と出会いたいと願う。