2021年10月31日 聖霊降臨後第23主日 説教

神様、これから語ります、わたくしの口の言葉、心のおもいを、どうぞあなたの御心へと導いてください。

おはようございます。

普段からラジオが好きで、いつもラジオを聴きながら過ごしています。
この説教を考えて書いているときもラジオが流れています。
テレフォン人生相談も好きで聞いています。

土曜日は、FMラジオで午後2時からの福山雅治「福のラジオ」を聞いて、4時からはリリーフランキーのスナックラジオを聞いています。
昨日も聞いていました。

リリーフランキーのスナックラジオは、あまり品が良くないのですけど、福山雅治の福のラジオとともに、日々の生きる勇気を与えてくれる貴重な番組だと思っています。

そのリリーフランキーのスナックラジオで、昨日は愛についてダラダラと喋っていました。
スナックで喋っている設定ですので、グダグダな番組なんですけど、勇気が与えられる不思議な番組です。

ぜひ聞いて下さいとお勧めしたいのですが、品が無い内容が多いので、聞きたくなった方は一人で聞くことをお勧めします。ラジコのタイムフリーで聞けば2週間は聞けますので、ぜひどうぞ。

リスナーからのはがきを読む中で、小学校教師から届いたはがきが読まれました。
子どもたちと「愛とは何だろう」という話をしたときのことをが読まれました。
「愛とは何だろう」と。
ある子どもが「愛とは安心して一緒にいられること」と言ったそうです。

「愛とは安心して一緒にいられること」

このことを話した小学生がどんな子どもかは一切わかりません。
苦労している小学生かもしれませんし、愛情豊かな環境で暮らしているのかもしれません。

「安心して一緒にいられること」とても大切な感覚だなと思います。

私は、家が安心出来る場所ではありませんでした。
暴力が日常の家でした。
そして小学校・中学校も暴力が日常でしたから、安心出来る場所がこの世界にあることを知りませんでした。

ずっと安心出来ない場所で生きてきたものですから、安心という感覚がなかなかつかめません。

安心して一緒にいられる人というのも、なかなかわかりません。
妻が一番それに近いのかもしれませんが、ある日スッといなくなってしまうんじゃないかと思う思いが拭い去ることが出来ません。

愛されたことがない、愛されるということがわからないで育ってしまったので、人はどこかで裏切り、去って行ってしまうものだと思い込んでしまっています。

本当に安心して一緒にいられるという愛を理解するのは、私には難しいのかもしれません。

そんな思いを持っている私にとって、『隣人を自分のように愛しなさい。』という今日の聖書の言葉は、そもそも自分が自分を愛していないのに、どうしたらいいんだろうと考えてしまいます。

自分自身を愛するということもわからない。
愛されずに育つと、自分自身を愛することが出来ません。

この世界でいらない存在として生きてきてしまいましたから、そんないらない自分を愛するなんて言う感覚を持つことがとても難しいんです。

「好き」という気持ちはわかります。
「好き」という気持ちと「愛する」という気持ちの違いというか、感覚も良くわかりません。

先ほどの「愛とは安心して一緒にいられること」だとすると、もしかすると私にとって、イエスは愛する存在かもしれないと思いました。

イエスは、私に暴力を振るってきません。
イエスは、私をいらない存在として罵倒してきません。
イエスは、私とともにつねに存在しています。
イエスは、私と同じような思いをいつも思い描いていたんじゃないかと思わせてくれます。
孤独の中、良き理解者もほとんどいないまま、この世界で歩み、そして孤独の中で最後を迎える。

この孤独のイエスに強く共感しています。

そして、このイエスを信じるということが、私にとっての数少ない「愛」なのかもしれません。
イエスとともにいることは、私にとって安心していられる関係だと言えるでしょう。

問題は、『隣人を自分のように愛しなさい。』
もしくは、「自分を愛するように隣人を愛しなさい。」

自分を愛していないのに、自分を愛するように隣人を愛するなんて良くわかりません。

愛が、安心して一緒にいられることだとすれば、
私自身が安心出来る存在でいることがとても大切なこと何だろうなぁと感じています。

律法学者がイエスに言います。「心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する」ということが大切な掟だと。
そしてイエスは言います。「あなたは、神の国から遠くない」

自分は神の国から遠いなぁと、打ちのめされます。

旧約聖書の時代から、「心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛する」ことが大切な掟でした。
そのために、イスラエルの民は、色々な形で神を賛美していました。
ですから、焼き尽くす献げ物や、いけにえ等も、神への献げ物としてささげられていました。

そういう目に見える事柄から、愛という目に見えない形へとイエスによって、変化が起きます。

愛こそがすべてといわれるように、
私たちは神に愛されている存在なんだ、そしてイエスとともに歩んでいる存在なんだということをあらためて確認したいと思います。

知り合いに、ボーイスカウトのリーダーで、子どもの相談をボランティアでしている女性がいます。
特に思春期の女の子の相談に乗ることが多いようで、目を覆いたくなるような自分を傷つける子どもたち、単なる自傷行為だけではなく、自分の存在を確かめるための異性関係など、大変な環境の子どもたちに、彼女は寄り添っているとのこと。

そのなかで、彼女がかける言葉、「自分を大切にしても良いんだよ」という言葉が印象的でした。

ついつい「自分を大切にしなさい」と言いたくなってしまいますが、「自分を大切にしても良いんだよ」と声かけするそうです。

いまあるその子の存在を否定しない、そのままの存在を認め、そして自分の大切にしても大丈夫なんだよという思いを伝える。

この言葉を聞いたときに、私自身もとても救われた気持ちになりました。

聖書が日本にもたらされて、愛という言葉を日本語に訳すときに、日本語には愛という言葉がなく、その代わりに「お大切」と訳されたそうです。

自分を大切にするように、となり人を大切にする。
こうなると、とても身近な感じになってきます。

自分を傷つけ、自分の存在が認められないものにとっては、愛する事と同じくらい、大切にすることが難しいわけですけれども、それでも、となり人を大切にすることは、良く理解できる感覚だと思います。

少し前にも話しましたが、自分を省みることなく、他人に対して一生懸命になる事は、自己満足との紙一重であると話しました。そのような意味でも、自分を大切にする、自分を愛する。
このことが、神との関係において大切な掟とされたのだと思います。

「心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛する」
そして「となり人を自分のように愛しなさい。」

自己満足の信仰に陥ることなく、神を愛し、となり人を愛し、この愛のわざを多くのひとに伝え、喜びのうちに日々の生活を送っていきたいと思います。