2017年2月11日(土) バルティマイを愛する

2017/02/11
聖光教会 夕の礼拝お話
マルコによる福音書10章46節〜52節

本日の聖書箇所には「盲人バルティマイをいやす」とタイトルが付けられています。
目の見えないバルティマイを、イエス様が癒される話しです。

しかし、いやしの話しよりも、バルティマイが叫んでイエスに憐れみを願ったときに、多くの人々がバルティマイを叱りつけたと書かれていることが気になります。

イエスが一行とともにエルサレムに向かっている途上の出来事です。一行とはイエスの弟子であり、イエスとその弟子たちとともに行動を共にしていた群衆です。

イエスを信じ、ともに行動をしていたメンバーなのですが、物乞いをする盲人バルティマイに対しては、冷たくあしらっているのです。

バルティマイは、ナザレのイエスが数々の奇跡を行い、いやしの力を持っていることをすでに知っていたのでしょう。「ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、私を憐れんで下さい」と言い始めたの」ですから、まさか、自分の前をイエスが通るとは、こんな嬉しいことはありません。
このチャンスに、いやしてもらえるならば、いやして欲しかったのだと思います。

多くの人々は、叱りつけ、黙らせようとしました。
なぜでしょうか。

物乞いだからでしょうか、盲人だからでしょうか。
道ばたに座っていたからでしょうか。

イエスを「私たちの救い主なんだ」と信じるものにとって、その信じるという信仰は一体誰のものなのでしょうか。
イエスに従っている弟子たちにとって、その信仰は、弟子たちのものなのでしょうか。
さらに従っている群衆たちにとって、その信仰は、お互いが認め合った者同士のものなのでしょうか。

このことは、普段の私たちの日常でも多く起こっています。

排外的行動です。

アメリカに於いては、新しい大統領によって、排外政策が行われようとしています。
日本に於いては、韓国朝鮮人に対する排外行動が見受けられます。
また、中国を敵対勢力として認識している政治家もいます。

もっと身近な話しでは、教会そのものが、自分たち私たちとなじめない方々を排除する姿勢をとることがあります。

泣き叫ぶ赤ちゃんを受け入れられない。もう少し大きくなった子どもたちが、うろちょろするのが受け入れられない。自分の言うことを聞き入れてくれない若者たちを受け入れられない。
身体に障害があるために、じっとしていられなかったり、声を発してしまう方々を受け入れられない。

自分にとって都合のいい人しか受け入れられない。
この様な状況が常にあるのではないでしょうか。

イエスは、立ち止まってバルティマイを呼んでこさせました。
イエスが自らバルティマイの所へ行くのではなく、呼んでこさせたのです・
群衆が叱り黙らせようとしている状況に対して、群衆によってバルティマイを連れてこさせたのです。

イエスだから、救い主だから、神様だからバルティマイを受け入れることが出来る、そうではなく、人々によってバルティマイを受け入れるようにとも受け取れます。
特別な能力や技術が無くても、バルティマイを受け入れられるのかもしれません。

そして、バルティマイはイエスによっていやされ、目が見えるようになったと記されています。
「あなたの信仰があなたを救った」とイエスは言われました。

バルティマイの信仰は、孤独の中の信仰だったのかも知れません。目が見えず、道ばたで物乞いをする人生。この様な人生の中で、イエスのうわさを聞き、それを信じてずっと待っていたのでしょう。だからこそ、「ダビデの子イエスよ、私を憐れんで下さい」と言い始め、群衆に止められてもなお「ダビデの子イエスよ、私を憐れんで下さい」と叫び続けたのです。
イエスを信じていたのです。

目が開かれたバルティマイは、イエスに従ってついていくことになっています。
私たちは、群衆なんでしょうか、それとも、群衆の中からバルティマイに手を差し出す人々なのでしょうか、その後、仲間に加わったバルティマイ。

目が見えるようになったバルティマイだから受け入れることが出来たのでしょうか。
信仰によって立っていることが大切です。

イエスを信じる信仰によって、私たちは集められ、そして派遣されています。
信仰によって救われる。

クリスチャンとして、分け隔て無く、キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりがある事を証していきたいと思います。