2017年2月4日(土) 祈り祈られる

2017/02/04
聖光教会 夕の礼拝お話
マルコによる福音書9章17節〜33節

祈り祈られる。
教会にいますと、言葉の端々に「お祈りしています」という言葉を耳にします。
「お祈りしています」というのは、何をお祈りしているのでしょうか。

病のうちにある方には「良くなる様にお祈りしております。」でしょうか。
困っている人には「困りごとがなくなります様に」でしょうか。

「イエス・キリストの御名を通してお祈りをお献げします。」と神様にお祈りをお献げしています。
日本の文化風習の中で生活していますと、私自身も仏教徒の家庭で育ち、親戚関係には神道もいますので、物心ついたときからごくごく普通に神社に願い事を叶えるお願いをし、お寺に行ってお墓参りでは先祖供養とともに、先祖のご加護があるようにとお経を唱える習慣が身についています。

いずれにしても、願い事を聞き入れてくれる様にお願いすることが求められていた様に感じます。
先日、Facebookの知り合いが面白い投稿をしていました。
「神社でお参りするときに、自分の住所をつぶやくって話を聞きました。」とのことで、とても疑問に感じられてのことです。
住所そのものは行政の都合で変わってしまうものですから、その都度神様への報告はどうするのか。や、神様に対する礼儀の様なもので、どこどこの誰それが来ましたと参拝するんじゃないか。とか。

似た様な話があり、「初詣の御賽銭は、「五円だと御縁がある」「十円は遠縁に通じる」などの俗説があるが、ある神職が「神様は、日本の貨幣制度が円になるずっと前から人々を救ってらっしゃいますので、関係ありません」と答えていたのが最高にクールだった。」
という話しです。

住所の話しにしても、お賽銭の話しにしても、その中心に「私」というのがある様に感じます。
私の行いに対して、神様が応答するという関係です。

私たちの行いに対して神様が期待通りに応えてくるのであれば、こんなに御利益(ごりやく)があって、役に立つ神様は自分にとってとても有益です。そして、その延長には、自己利益のみならず、他者の不利益も願う様になっていってしまうのも良くわかります。
そして、信仰とは全く離れて行ってしまい、憎しみや争いというのが起きてきてしまいます。

では、私たちは何をどのように祈れば良いのでしょうか。
同じ質問が聖書に書かれており、弟子たちがイエスに聞くことによって、イエスは、今、私たちが唱えている主の祈りにあたるものを教えてくださいました。

主の祈りに於いても、また、他の祈りに於いても共通しているのは「私の願いを聞き入れてください」ではなく、「御心に適うように」と、神様と私の関係において「神様から与えられている愛を感じ、受け取り、応答する私たち」というのが求められています。
今読みましたマルコによる福音書9章23節でも「できれば」と言うか。とイエスに指摘されております。

「神様の存在を受け入れ、信じ、その愛を受け入れる」さらには「イエス・キリスト」を信じるといういくつもの信じることがあり、日本の文化風習の中で生きていると、とても信じがたい事柄が多く現れてきます。

信仰をもつということは、今、ない状態からすると、自分にとって「なにかひとつのものが増える」ということかも知れません。人によっては負担がひとつ増える、毎週教会に関わっている、もしくはそれ以上に教会に関わっている人にとっては、ひとつどころが、いくつもの負担が増えてしまうのかも知れません。

それは教会という目に見える建物や組織の問題であり、信仰の問題ではないのです。
信仰というのは私たち一人ひとりを豊かにし、自由にするものです。

そこには、神様の愛によってこの世に生き、そして生かされております。
祈りによることによって、私たちはその信仰の道を歩んでおります。

そこに初めて「お祈りしております」という言葉の意味が見えてきます。
私たちが他者のことを思い、神様に心を向けて祈るとき、
信仰にたち、御心を信じることによって、いまの状況が見えてくるのかも知れません。

一人でも多くの人々に想いを寄せ、神様に心を向けて祈ってまいりたいと思います。