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2020年11月12日
から admin
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「物語を理解できない」 もテモテ通信2020年オータム号より

「物語を理解できない」

映画が好きで、ジャンルを問わず様々な映画を好んで見ています。ところが多くの映画のストーリーが良くわかりません。

さらには映画を見終わった後に「で、主人公は誰?」と妻に聞くこともあります。

また、演者の名前は知っていても、映画の中の名前はほとんどの場合わからないまま見終わります。

ですから、物語中の名前で映画の話をされると、一体誰のことなのかわかりません。

同じように書籍の文章を読むことも、多くの場合は理解が困難です。ところが映画と同じように本が好きで、手に入れては積ん読状態に。

物心ついた時にはこの様な感覚でしたから、文章についての感想を求められると、まったく理解できずに、苦しい時間でしかありませんでした。読書感想文はまったく出来ませんでした。感想がないのです。

どのように映画を見ているのだろうか、どのように文章を読んでいるのだろうか。と考えてみますと、物語の中の、その瞬間の場面や出来事を一枚の写真のように捉えて、ドキュメンタリー写真のようにリアルな事柄として受け止めて、咀嚼しているような気がしています。

日常の生活においても同じような感じ方をしているようで、目に見えるものはその瞬間瞬間の画像として認知しているような気がしています。そこにある事実だけが存在して、その事実をそのまま受け入れる、そんな感覚です。

聖書を「読む」ということも同じように困難が伴います。そもそも登場人物がまったくわかりません。その関係性も理解できません。その上で、当時の修辞学によって書かれた作品が、さらに日本語に翻訳されている状態ですから、まったくもって理解不能な状態です

ウイリアムス神学館での学びは、この聖書なるものを丁寧に教えていただけるものと考えていましたが、聖書の内容の一つ一つについて丁寧に学んだ記憶がありません。

各科目の先生方が教えてくださっていたのは、聖書を読み解くための方法でした。旧約聖書の教授はリアリストでありながら信仰的理解をする方で、「この人はそもそもいなかったでしょう」「こんなことを言うことはないです」「作り話です」と聖書をバッサバッサと切り捨てていきます。

しかし、聖書として記されたことには意味があり、書き記した人たちがどのような思いや背景で書き記したのかを研究すると、伝えたかった本質が見えてきて、その中から信仰の本質を読み解くことが出来るということを教えていただきました。

聖書の読み方を知ると、興味深く聖書を読むようになりますが、いわゆる文学の深く広い世界が、どこまでもどこまでも留まることがない世界として立ちはだかってきます。この深く広い世界が面白いと感じると、文学に興味を持ちどこまでも歩き続けることが出来るのでしょう。

愛読書はなんですか?と問われると、、、見つかりませんでした。いつか「聖書」と応えられる日が来ることを望みたいと思っています。

 

もテモテ通信2020年オータム号より

 

もテモテ通信_2020オータム号

2019年2月6日
から yuzo
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2019年2月6日 説教論 演習説教

説教論の授業で演習として説教を行った。

C年・特定11に見立てて、聖餐式の中で説教を行うという体裁で原稿を用意して、実際に説教を行います。

説教演習後、担当教授によって講評を受けます。

以下説教原稿。

ルカによる福音書10章38節〜42節

日ごろTwitterを見ていますと、いろいろな情報が飛び込んできます。
そのTwitterではエゴサーチという検索をすることがあります。
このエゴサーチ、エゴはギリシャ語由来のエゴーから来ています。
ギリシャ語でエゴーエイミーという言葉とつながったら、何て神学的なんだろうと思うわけですが、
英語でもエゴーは自己とか自身という意味で、要するに自分の事を検索するのがエゴサーチです。

自分の事を何のために検索するのかというと、自分が他人からどのように見られているのか、どのように言われているのか、誹謗中傷されていないかなど、基本的にはネガティブな感情からエゴサーチするのが多いと思います。

さすがに私自身は有名ではありませんので、私の事を検索してもほとんど出てきませんが、「聖公会」というキーワードは、常時検索対象の言葉として検索をかけ続けています。
すると、聖公会という文字列がTwitterに含まれていれば、リアルタイムでツイートが引っかかってきます。

言葉の釣をしているような感じです。

「聖公会」のキーワードで検索して出てくるツイートはそんなに多くありません。教会や牧師はほとんど使っていないのでしょう。もともと一般的に認知度が高くない「聖公会」という言葉、その上関係者もツイートしていないとなれば、ほとんど認知されていない言葉、今に生きる言葉として聖公会が使われていないとも言えます。

その検索して引っかかってきたツイートに、こんなのがありました。
「神様が望まれるのは行いや物質ではなく心です。 嫌々従う心ではなく、心からの喜びを持って神様を見上げることこそが最大の奉仕であり、賛美であることを思わされます。」
プロテスタント教会の牧師がツイートしていました。
「これこそがキリスト教的な意味での「愛」です。」と。

これは、詩編147編の次の言葉から黙想されたもののようです。

「主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく/人の足の速さを望まれるのでもない。主が望まれるのは主を畏れる人/主の慈しみを待ち望む人。」(詩編147:10-11)

このツイートに、ある女性が反応されました。
「だからマリアがヨシでマルタがダメなんですね。やっと分かりました。 でもサラリーマンで主婦としてはマルタが気の毒・・・」と。そして、「私が子供の頃からマルタびいきなのは「あのイエス様がいらっしゃるなんて!ああ嬉しい!お疲れだろうしご馳走作って食べて頂こう!」とワクワクしてたのにマリアは手伝わないで、叱ったら二千年も人々に悪い例として嘲笑われている点なんです。」と、気落ちされていました。あるとき、この方はどこかの教会で牧師に尋ねたのでしょう。「マルタとマリアの不公平とか。牧師さんは言葉に詰まって悲しそうでした。」とも書いておられます。

最初にツイートした牧師さんは「聖書には一般常識とはだいぶ異なることも書かれていて、その矛盾に納得いかないこともあります。でもその意味を考えていくことも大切だと思います」と結ばれています。

私には、彼女の気持ちにより添っているようには見えませんでした。
気になったので私もツイートしました。
「私は、イエスはマリアを叱っていないと考えています。どこにも叱ったとは書かれていません。」と。そして、私が以前神戸教区の中高生大会にときに話したマルタとマリアの話しが掲載されているWEBを紹介しました。

彼女は、「大人になって初めて問題の箇所を確認しました。イエスではなく周りの人間がマルタをバカにしてきたんだと思います。考えたら、せっかく有難いお話をしているのにバタバタして聞いていないのは勿体ない。おもてなしは後にして大事なことは座って良く聞く。仕事でも同じです。イエス一行が死にそうになっているなら、イエス様まずは休んでくださいと言ってもいいし、イエスが今、食べるより話したいと思ったなら合わせて聞いていい。その時最も必要なことを一心にすること、とサラリーマンは思うのでした。」と。

「もっとも必要な事を一心にすること」彼女は、今まで描いていたマルタ像から新しいマルタ像が見えてきたのかもしれません。
先のツイートのような、悲観的応答から、前向きな応答に変わっているように感じます。

ちなみに、「周りの人間がマルタをバカにしてきたんだと思います」とも書かれていたので、「マルタをバカにしてきたのは、聖書を読んでいる人たちなんです。マリアも、マルタのことをばかにしていませんし」と、イエスもマリアもマルタをバカにしていないですよということも付け加えておきました。

中高生大会の時に話した内容は、
今日の福音書の場面からお話をしました。

イエス様と弟子たちがマルタとマリアの姉妹の家を訪れたとき、二人とも大喜びでイエス様一行をもてなす話しです。お姉さんのマルタはおもてなしのために一生懸命働き、その準備に大変だったのでしょう。ところが妹のマリアは一生懸命に働くこともなく、イエス様の足下に座って、イエス様の話を聞いていたのです。

イエス様が尋ねてくると言うこんなハッピーなことはないのにも関わらず、このお姉さんのマルタは、妹のマリアの態度にイライラし始めて、イエス様に不満をぶつけてしまいます。「主よ、私の姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何とも思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」マルタはイエス様がマリアに注意してくれることを期待したのでしょう。しかしイエス様は「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要な事はただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」と応えました。

この話しの大切なことは、イエス様は不満をのべたマルタを批判していないと言うことです。2回もマルタ、マルタと呼びかけて、マリアは良い方を選んだんだよと、多くのことに思い悩んで心を乱してしまったら、せっかくマルタ自身が働いて奉仕している意味が、自己満足になってしまい、イエス様のため神様のために働いているのではなくなってしまいますよと。

この話しには前後がありますが、ここを中心にお話をしました。

聖書の中のイエスの言動をみてみますと、叱る怒るというような感情の時は、「悪魔よ出て行け」というように、一言で一喝しています。もしマルタを叱っていたら「マルタよ、だまれ」とか言ったかも知れません。
しかし、ここでは、「マルタ、マルタ」と2回も名前を呼ばれているのです。
優しく呼びかけたと考えた方がしっくりくるのかもしれません。

そして、先ほどのTwitterで悩まれていた女性、彼女こそがマルタだったのかもしれません。
彼女は、小さいときに出会った聖書の言葉、どのように聖書の言葉に出会ったのかはわかりません。しかし、彼女はマルタびいきと御自身でおっしゃっているように、マルタにご自分を重ねていたのでしょう。だからこそ、悲しくなっていたのだと思います。

もう一度彼女のツイートを読んでみたいと思います。

「大人になって初めて問題の箇所を確認しました。イエスではなく周りの人間がマルタをバカにしてきたんだと思います。考えたら、せっかく有難いお話をしているのにバタバタして聞いていないのは勿体ない。おもてなしは後にして大事なことは座って良く聞く。仕事でも同じです。イエス一行が死にそうになっているなら、イエス様まずは休んでくださいと言ってもいいし、イエスが今、食べるより話したいと思ったなら合わせて聞いていい。その時最も必要なことを一心にすること、とサラリーマンは思うのでした。」

まるで、イエスに「マルタ、マルタ」といさめられたマルタのその後の気持ちのようにも感じられます。

「イエスが今、食べるより話したいと思ったなら合わせて聞いていい。」
まさにこの一言に、御心をどのように感じ取ることが出来るかの本質が言い現れています。
「イエスが今、食べるより話したいと思ったなら合わせて聞いていい。」
御心に心を寄せること、そして御心をしっかりと感じ取れる気持ちをもつこと。

Twitterで、見ず知らずの人、顔も見たこともなければ、どんな人かもわからない。
その出会いと言葉のやりとりの中にも、私たちの間に働かれるイエスの言葉を垣間見ることが出来、さらには、マルタにも出会うことが出来るのです。。

マルタとマリア、どちらも御心を感じて応答していたのでしょう。
私たちも、マルタとマリアの両方の働きの大切さを思いながら、教会での私たちの働きについて、思い巡らせながら、礼拝を続けてまいりましょう。

 

以上、説教原稿おしまい。

実際の演習では、この原稿を下地に、話し言葉に換えながら説教を行っています。

2019年1月26日
から yuzo
2019年1月24日 説教論 演習説教 はコメントを受け付けていません

2019年1月24日 説教論 演習説教

説教論の授業で演習として説教を行った。

聖霊降臨日に見立てて、聖餐式の中で説教を行うという体裁で原稿を用意して、実際に説教を行います。

説教演習後、担当教授によって講評を受けます。

以下説教原稿。

 

ヨハネによる福音書20:19-23

聖霊降臨日

先日、東京教区の主教按手式に参列してまいりました。主教按手式でしたので多くの方々が参列されており、昔からの友人たちと久しぶりに再会いたしました。こういう機会でもなければ、なかなか会うことが出来ない友人たちです。

私自身が神学生そして聖職候補生になってからお目にかかる方々もいらっしゃり、私の転身の様子に様々なご挨拶がありました。

その多くは、私の書いた文章が、管区事務所便りに掲載されたり、神学生後援会に掲載されたりして、少しばかり様子をご存じのようで、「結構ちゃんとしたことを書けるようになったのね」「いやぁそれなりに立派になったねぇ」と。そして「頑張ってね」「楽しみにしてます」と、応援のお言葉をいただきました。

口の悪い友人もいるものですから、私たち夫婦をよく知る旧知の女性からは「あんなダメ男で、どうしようもない男が、こんなに太って、立派になっちゃって、本当に最低の男だったんだから」と。ニコニコしながらも笑ってない目で、そして、とどめに「ちゃんとしなさいよ」と。
思わず「ちゃんとしてるってばぁ」と言い返してしまいましたが、悪い気はしませんでした。

若い頃のわたしを知っている方々、友人たちというものは、本当に遠慮なく話せるので、とても楽しい時間を過ごしてきました。
とは言っても、やっぱり、「赤ちゃんの時におむつを替えて上げたのよ」と言われるような感じで、なんとも言えないこそばゆさがあります。

主教按手式には、按手に先だち聖霊の恵み・働きを願う歌を歌い、按手に臨みます。
聖歌298番です。
「聖霊くだりて」で始まる歌です。

この歌を歌いながら自分の事を考えてしまいました。
いま、聖霊の恵みと働きを、会衆とともに求め、そして按手に挑む。
いずれかの日には、私自身もこの歌とともに聖職按手をうける日が来るのだろうかと。

按手という特別な恵みに対して聖霊を求め、その働きを願う。
いま会衆で歌っている私には、この聖霊の恵みはあるのだろうかと。

なにか選ばれた者だけが、その特別な恵みを受けるのではないかと、思っていたのです。

ところが、聖霊降臨日の福音書を読みますと、「弟子たちはユダヤ人たちを恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵を掛けていた」と聖霊を受ける弟子たちが出てきますが、この弟子たちが、イエスが選んだ12弟子だったとは書かれていません。

イエスの弟子たちは、12弟子以外にもたくさんいましたし、ユダヤ人を恐れていた弟子たちというのも、イエスが十字架刑で死を迎えた時に、イエスの弟子ではあったけれども、声を上げられなかった、声を上げなかった弟子たちがそれなりにいたわけです。

聖書にでてくる名もない弟子たち、彼らが、イエスの十字架刑での死の後、今度は自分たちがイエスと同じように十字架刑にかけられ殺されるのではないかと恐れていたのです。
また、直前の聖書箇所では、イエスが復活されたことが記されており、この弟子たちにもイエスが復活したという話しが伝わっていたかもしれません。

だとすると、もしイエスが復活したとすれば、イエスを裏切った弟子たちは、イエスに合わせる顔がないわけです。それ以上に、イエスから叱責を受けることも十分考えられます。

こんなに恐ろしいことはありません。どちらにしても恐ろしいことが起こるのではないかと戦々恐々としていたのでしょう。

そこへ、イエスが現れます。
「あなたがたに平和があるように」と。
そして、十字架刑の時に傷つけられた手と脇腹を見せるのです。

あの時、あの場所で見たイエスが、「あなたがたに平和があるように」と言って現れるのです。

そして、「父が私をお遣わしになったように、わたしもあなた方を遣わす」と。
さらに、息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と。

イエスは、恐れ隠れていた弟子たち、それも、名もなき弟子たちのところに来て、聖霊を与え、派遣するのです。

イエスの12弟子が、イエスの弟子になった経緯もそうですが、イエスの方から一方的に声を掛け、それにしたがって歩む12弟子が描かれております。

このイエスが弟子たちに現れたときも、イエスの方から一方的に関わってきています。
そして、イエスは弟子たちの裏切りについてはまったく言及することなく、「平和がありますように」と聖霊を与えて派遣させられるのです。

聖霊の恵みは、もしかすると特別な人のみ、選ばれた人のみに降り注ぐのだ、というのは少し違っていたようです。

イエスを裏切り、ユダヤ人たちの迫害をおそれて、その後も戸に鍵を閉めて閉じこもっていた弟子たちにも聖霊は与えられるのです。

そして、自分たちの裏切り、そののちの態度も含めて、イエスはとがめることなくゆるして下さっているのです。

聖霊の働きは、具体的に「これだ」というのはわからないわけですが、それでも、聖霊は今も働いていると私たちは告白しています。

聖霊の働きをどこに見いだすのかといつも考えていますが、目に見えるというか、体験出来るのが聖職按手のときの、聖霊の歌だと思っていたのです。

しかし、その時だけではなくて、いつも、つねに私たちには、イエスが弟子たちに吹き込まれた息のように、聖霊の働きがあるのではないでしょうか。

そして、その働きの中に、イエス・キリストを伝えることが求められているのだと思います。

私の友人たちが、掛けてきた言葉、口の悪い友人が多いので、チクチクと心に刺さる言葉でもありますが、その言葉の背景には、「いま、あなたはちゃんと神様の方を向いていますよ、他の方向に向かないようにね」という、私の昔の態度から比較して、神様のほうへちゃんと向いているということへの、赦しの言葉ではなかったのかと思います。

聖霊の働きは、私に働いたのではなく、私に声を掛けてきて下さった方々に働いていたのです。

そして、イエスと同じように、一方的に、私に対して「平和がありますように」と挨拶をしてきていたのです。

聖霊降臨日を迎えて、聖霊の働きってなんだろうと思っていましたが、このように、イエスに遣わされた誰かを通して、私たちに働かれる恵みなのだと思います。

そして、私たちもまた、イエスに遣わされた名も無き弟子たちの一人なのです。

出会った人と話す時、その言葉には私たちを通して働かれる、聖霊の恵みが伴っているのかもしれません。
そして、その言葉からキリストの愛が、知らず知らずに相手に伝わっているのかもしれません。

そこにキリストの愛が伴っていれば、赦し赦される関係になることでしょう。

聖霊ってなんだろうと、思った時には、イエスから一方的に吹きかけられた息によって、すでに私たちは聖霊を受けていて、私たちは赦し赦される関係を作ることが求められているんだ、ということを思い起こすと良いのかもしれません。

このあと平和の挨拶があります、イエスが弟子たちに現れたときに言われた言葉と同じ言葉です。
聖霊の働きというものを気に掛けながら聖餐式を続けてまいりましょう。

 

以上、説教原稿おしまい。

実際の演習では、この原稿を下地に、話し言葉に換えながら説教を行っています。